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忘れられないイタリア語の話 161-180

忘れられないイタリア語の話

  ここに書いているのは、イタリア語の単語を覚える時に、私がクラスで生徒さんに記憶にとどめて貰うために話す内容を文章化したものです。いわば講義のネタ本です。英語の単語にも元がラテン語のものが多いため、ラテン語の系統を最も受け継ぐイタリア語を知っていると自然に英語が分かります。そんなこともここで確認してみてください。


161.patria(パートリア):祖国である。Patriotという名前のミサイル迎撃弾は、湾岸戦争のときに活躍して有名になったが、あれは「愛国者」という意味で、イタリア語では、patriota(パトリオータ)となる。さて1990年代頃までは、海外へ仕事で赴任する人たちはほとんどJALの世話になった。日航名人会という落語の会を催していて、世界中に散らばっている日本人にひと時の日本の味を届けてくれたものです。ファーストクラスに乗れば、日航のハッピだか浴衣だかをくれた。ビートルズがタラップをハッピを着て降りてきたのは、ファーストクラスだったから(でなくてもハッピくらいあげただろうが)。今はどうだか知らないが(いずれにしろ、私は1stとは無縁ゆえ、貰っていないが)。この日航名人会がイタリアに来た時には、私も出掛けて行った。その時の噺家の一人が、「祖国を遠く離れて海外でご活躍の皆さま~、ご苦労様で~す。天皇陛下は~、お元気です。」とやったので、大分受けた。このセリフは、あちこちで使っているのだろうが、海外に5~6年も住んでいると確かに「祖国」という言葉に多少実感がこもる。1990年は明治維新から数えて、132年である。福沢諭吉が「西洋事情」の中で、パリのホテルで「自分たちは大人数なので、泊る旅籠は出来るだけ近い場所にして欲しい」と頼んだところ、「いったい何人だ?」と聞かれ「25人ほどもいる」と言ったら、「何だ、それくらいなら一軒でどうにでもなる」と言われ、実際に言ってみてホテルの大きいのに驚いたとある。(注:人数はうろ覚えなので、後で調べて訂正します)「西洋事情」には、大名がトイレに入るときには、トイレを開けっ放しで廊下の周りを家来が土下座しているので、西洋人の客が驚いている、などと言うことが書いてあって面白い。1868年に明治維新をやって、77年後の太平洋戦争で敗戦となった。この間現在の寿命よりやや少ない程度の時間だ。つまり日本という国が明治元年に生まれて、昭和20年に一度死んだようなものだ。それからもう一度精一杯働いて20年後には、海外に自由に行ける時代が来た。1950年代にテレビで「デイズニーショー」をやっていて、当時はこんな夢の国に行けるとは思わなかったが、今は行ける。日本にもあるが、アメリカのでも決して見るだけの「夢」ではない。1945年(終戦)に再生して人間の寿命だと80年は2025年だ。再び寿命を終えることがないようにしたいものだ。いつか、困難や危機は来るだろうが、それは戦争(guerra)か、それとも金融危機か(デフォルト=inadempimento)、天災か?? さて、1970年の初めのころは、農協さんが大挙して海外へ行った。私も同じ頃ヨーロッパを貧乏旅行して回っていて、農協さんの後にトイレに入ると、大変なことになっているのに2度ほどお目にかかった。まだ洋式トイレが地方までは普及していなかった時代。それから、また40年経ち、Euroが100円を切る時代となった。TOTOのwashletがヨーロッパで羨ましがれるようになったとか。これでやっとトイレ先進国になったのだろうか。今日はトイレの話になってしまった。

162.bide':前項でトイレの話になったので、項を改めて加える。washletは、まだイタリアにはない(少なくとも全く普及してはいない)ので、多くの人がこの便利なものを知っているわけではない。どちらかといえば、日本に来た人が、トイレに入って驚くくらいだ。従い、これをイタリア語でなんと言うか、というとbide'というしかない。勿論bide`とは用途も使用法もスタイルも違うのだが。古代ローマ時代から欧州は水洗トイレである。しかし、水洗だからと言ってどこにもあるわけではない。パリのベルサイユ宮殿の庭は、パーティの際に客が庭で用を足すので、大変臭く、そのために香水が流行ったという逸話もある。今はどうか知らないが、70年代にSiciliaへ行って公衆便所へ入ると、腰かけるふたがない。洋式トイレで腰かけるふたがないと、これは大変技術がいる。返って和式スタイルでしゃがめる方が楽だ。勿論、しゃがむスタイルのトイレはほとんど何処でもある。イタリアも学校や田舎の公衆便所にはしゃがむスタイルのが多い。確かブルガリアの学校のトイレを借りたときには、水洗ではなかったように思う。日本式のようなトイレで、落とす穴が小さく、そこをめがけて落とすのはこれも技術だ。中国は、これも70年代後半の話だが、外国人用のホテルは勿論洋式水洗だが、工場へいけば縦に穴が掘ってあって、そこにまたがって用をたす。仕切りはないから、前で用を足している人のお尻はまる見えだ。まあ、トイレを秘密の場所のように締め切るのは日本ぐらいで、ヨーロッパだと、まずドアの下の方は空いている。ドイツだったか、スイスだったか忘れたが、空港のトイレでドアがすりガラスになっているので、中の顔は見えないが、しゃがんでいるのははっきり見えるというところもあった。まあ、おおらかなものだ。日本の感覚ではトイレとお風呂を同じ場所に置くということはなかったが、ご存じのようにあちらでは同じだ。従い、トイレはbagno(お風呂)という。トイレに行くときに、Nature calls me.というと、大体通じるが、この言い方を普段使うのかどうかは知らない。あるベルギー人とイタリアで一緒に仕事をしていたが、彼はトイレに行くときには、鼻をくんくんさせて、「こっちだ」と言って、みつけていた。トイレにまつわる話は終わりがないので、ここらへんで。

163.cima, buca:日本語を学習している外国人の方が、日本語で面白いと思うもののひとつに、畳語というものがある。畳語とは、雨が「ザーザー」降るとか、「くたくた」に疲れる、「どんどん」進むのように、重畳(重ねて)して使うもので、重畳語ともいう。このうち、擬声語は、動物の鳴き声や前述の「ザーザー」のように、音を言葉で表現するもので、これはイタリア語ではOnomatopeaと言う。ただし、onomatopeaには、犬の鳴き声"bau-bau”のように繰り返すものはまれで、猫の鳴き声"miao"のようなものも指せば、"bisbigliare"(囁く=囁く音から)、"strisciare"(這う=這っている音から)のように、まさしく擬声語というものを指す。重畳する言葉は、中国語にも多く見られるが、日本語にはかなり見られる。イタリア語の特徴は、これまでも見てきたように日本語と同じような言葉が時々見られることで、そのことが親しみをます。擬声語は、「ワンワン」「ニャーニャー」「ブーブー」「チンチロチンチロチンチロリン」「メーメー」など殆ど幼児語のようなものだが、多くつかわれる。これ以外には、名詞や副詞として使われる重畳語は多い。さて、私が面白いと思うイタリア人にも覚えやすい情語を上げてみる。 ぶかぶか(buca-buca) 「穴穴」である。なにか「ぶかぶか」のイメージが浮かばないだろうか。他には、イメージが浮かぶかどうか分からないが、次のような畳語がある。passa-passa(パサパサ)、bello-bello(ベロベロ)、caccia-caccia(カチャカチャ)、collo-collo(コロコロ)、sta-sta(スタスタ)、sala-sala(サラサラ)、cima-cima(チマチマ)。勝手な想いだが、もし日本語を教えるとしたら、こんな風に教えたら面白いかもしれない。なお、イタリア語にも畳語があった、ブラブーラ(41項で説明)だが、残念ながらスペルは、"bravura"であった。

164.pioggia: 雨である。日本語はじつにあいまいな言語である。従い、多国語を訳する時に、はっきり理解しているかどうかは、主語がなにか、目的語がなにか、そして時制を正しく捉えているか、この3点がポイントだということは、当スクールでは常に述べていることです。主語と目的語は、「誰が」「何を」という話のポイントとして重要である。恐らく新入社員の方は、入社早々上司に報告する時にまず、この2点を厳しく問われているはずだ。時制については、これも前に述べているが、外国語の時制は単に時間の違いだけでなく、「経験」「余韻が残る動作」「過去の習慣」「現在または過去の時点での予測」さらに(法=条件法、接続法など)では、「主観」「結果を(言わないが)含む」など色々な意味を含むことが多いので、それを理解する必要があるからだ。外国語が苦手な人は、おしなべてこの3点の理解力が低い。逆にいえば、日本語から脱却できない。広島の平和公園には、「過ちは二度と犯しません」とあるが、「誰が」が書かれていない。(長崎は今日も雨だった)を自動翻訳機で訳すと、Nagasaki e` anche oggi la pioggia.となる。日本語は、長崎では、と言わずとも長崎はでも通じる。しかし、外国語にするには、A Nagasaki のように、場所を表す前置詞が必要となる。英語が苦手な方の中には、このように訳してしまう方が多い。例えば、Tomorrow is rain.も同じ間違いである。さて、難読症という脳疾患がある。これは、イタリア語ではdislessiaという。lessiaは文字のことなので、文字が読めないという意味だ。これは勉強をしていないのではなく、文字の図形認識が出来ないという疾患であって人に読んで貰えば、意味は理解できる。この病気で興味深いのは、日本語やイタリア語のような母音で終わる言語の国民には少なく、英語やフランス語国民に多いということ。特に日本人にはこの症例がとても少ないそうだ。これは、日本語が表意文字(漢字)と表音文字(かな)から成り立っていることと関係があるらしい。(以上内田樹「日本辺境論」から)昔から日本人は識字率が高いといわれているのは、文字と関係がないわけではなさそうだ。韓国やベトナムでは、国の文化を守るためか漢字をなくしてしまった。一方中国では、一時漢字をなくそうとしたことがある。全てピンインに変えようとしていた。事実私が中国語を少し習った頃、漢字ではなくピンインだけで授業をしていた。それは、中国が漢字では世界に遅れると感じた為だという。しかし、1980年代後半以降中国は躍進を続け、今や誰も漢字をなくそうとは思わない。一方日本語は大変便利な言葉でもある。日本語をなくそうという案はあまり聞いたことはないが、英語公用語論はよく話題に上る。日本人にとって外国語は大変難しいと言われているが、上記のように日本語には良い点もたくさんある。何でも「~である」で通じる不思議な言葉だ。

165.sorpassare: 「追い越す」ことを言う。イタリアには多くのterme(温泉)があるが、殆どは冷泉であり、湯治場として病気の治療の為にあるのがの普通のようです。Monticatini termeというのが、トスカナ地方にあるが、広大な敷地の中に石像が林立している中になる。一度車で通りかけたことがあるが、イタリアでは「湯治場」「年寄りがいくところ」というイメージがあると言われて、中には入らなかった。Termae Romaeという日本の映画があったが、これはラテン語でローマの風呂という意味である。カラカラ浴場は、Terme di Caracallaという。Monticatiniなども、車だとさっと行けるが、電車だと恐らく大変だろう。結局はタクシーを使うことになる。ミラノから南に100kmくらいのところに、ゴルフ場があって、日本人会のゴルフがそこで良く行われて参加したことがある。勿論車で行くのだが、そこへ行って帰ると車のヘッドあたりに、たくさんの虫がこびりついている。特に夏~秋にかけてのころだと思うが、イナゴのような昆虫がくっついてくるので、田舎に行くと自然が多いんだなと感じた。フロントガラスに鳥がぶつかってきてびっくりしたこともあった。最近の話だと結構スピードの取り締まりがあるようなことも聞くが、20年ほど前には、180kmくらいで飛ばすのは普通だった(と思う。私だけではないはず)。220kmほどのスピードを出したこともあるが、私がそれほどスピード狂だったわけではない。私がイタリアに住んで最初に受けたスピードの洗礼は、普通の道路で260kmで運転するイタリア人の車に乗ったことだ。それと、最高速度180kmのディーゼルのベンツで、ミラノからヴェニス間約200kmをずっと180kmで運転した車に乗ったこと。自分で車を運転するようになってから、バックミラーにFerrariかPorcheが見えたら、見えた途端にコースを譲らないと、次の瞬間には、真後ろにピッタリつけられているということを知ったこと。イタリアでは、よほどのことがない限り追い越し車線以外では追い越さない。従い、走行車線が空いていても、スピードが速い車は追い越し車線で前の車の後にピッタリ付くことになる。この点は、日本も見習ったら良い。追い越し車線をゆっくり走っていると、追い越す車が蛇行運転をして、事故に繋がりかねない。追い越し車線のことは、corsia di sorpasso という。

166.religione :宗教である。宗教の事をここで述べようとは思わないが、religioneの言葉は、re(神)+legare(結ぶ、関係)から来ているそうだ。またreligioneはラテン語のreligio(re+ligio)からきている。religioというのは、「制度化された宗教」という意味がある(「悩む力」カン尚中著)。つまり、宗教と言うのは、今のように選択出来て個人が信じるものではなく、地域(regione)や共同体が信じているものだった。イスラム社会はこれに近いのではないだろうか。カン氏の言葉を借りれば、宗教と言うのは自分が所属する共同体の生き方そのものだから、何のために生きるのか、何のためにこれに従うのか、考える必要がない。例を上げれば、ある国が「反日」教育をすると、国民は全て反日になるのは、それが共同体の考えだからだ。国民は疑問は覚えない。反日が前提にあるので、どんなことでも反日行動や、暴動の理由にはなる。「反日」という共同体のいわば宗教が、行動を正当化するのだろう。日本のマスコミは、当政府は反日行動が反政府運動に拡大するのを恐れて、報道を自粛しているなどと評論家のようなことを言っているが、一体それがどういう意味を持つのだろうか。報道を自粛しようとどうしようと、反日教育の教祖(=re)は、当政府なのだから、マスコミは一体何を擁護したいのかと聞きたくなる。反日教育を行っている国に、日本政府が言うべきことは、反日教育を行わないようにさせることではないのか。もし、それにもかかわらず、反日教育を今後も続けて行くのが国の方針なら、「友好」が、形だけどころか、文字だけで形も何もないことに、早く気付くべきだろう。いくら国が反日教育をやろうと、国民は政治と経済を分けている、という考えもあるが、ある国では、その政治体制からも国民は強くre(共同体の神=支配者)と結びついている。従い、reが方針を改めない限り、基本的な思想は変わらない。religioneとはそういうものではないだろうか。つまり共同体の思想に反するものは、「村八分」に合うことになる。これをイタリア語では、banditoという。banditoというのは、「悪者」「追いはぎ」「ならずもの」という意味で使うが、もともとはbandire(追放する)の過去分詞の名詞形で、「(共同体からの)追放者」「亡命者」の意である。また、religioneとregioneは、似ているが特に関係のある言葉ではなさそうだが、religioneがもともと「地域、共同体の生き方」であったという話から、regioneと結びつけたくなっただけだが。

167.Quando, quanto, quale, chi, che, cosa, come : ご存じの疑問詞なので、意味の説明は不要でしょう。イタリア語の疑問詞の殆どが、クァ、キ、ケ、コのような、カ行の喉頭音で始まっていることに、ある種の疑問を感じないでしょうか。英語は、When, which, who, where, why そしてhow のように、フ、フォ、ハのように、ハ行である。ただし英語は歴史としては新しい言語なので、自然と生まれた言葉というよりも作られたものだと、ここでは一旦排除する。さて、勝手な推測だが(言語学の専門家には素人の余興として笑って下さい)、人間が言葉を話し始めたのがいつごろか知らないが、喉頭音というのは、我々が動物園で聞く猿の鳴き声のキャッキャッ(あくまで日本人が聞く音)やキーキーなどをいうが、この音から始まったのでないのだろうか。H音も喉頭音らしい。猿だけでなく、鳥も、カーカー、クークーなど喉を鳴らす音である。ホーホケキョは、H音とK音だと言える。彼らがなんと言ってるのか知らないが、疑問詞というのは、会話の基本である。誰かと会話を始める時には、何かを聞くことから始める。もし、聞くことでなく、普通の肯定文を述べたとしたら、一人言を言っているか、そうでなければ自己紹介でもしていると思うでしょうね。そーすると、鳥も猿も、何か誰かに聞いてるんじゃないのだろうか? 「おまえは誰だ、キー」とか、「それはなんだ、キッキー」とか、「飯はまだか、いつだ、クークー」とか? つまり、人間が話を始めたときには、鳥や猿と同じように、質問から始めただろうと。そして、当然それは喉の奥から絞り出す訳だから、イタリア語のQuandoに始まるような、「クァ」とか「コ」や「ケ」が会話のスタートになっていたのではないだろうか? 勿論、イタリア語ではこれを説明することは難しい。従いラテン語で見てみると、「誰」はquis(ラテン語は男女中性、数、そして格変化をするので、一つだけでは表せないので、ここでは主格、単数、男性形だけを書く)、「何」はqui 、「いつ」はquando、「どの」はque、「なぜ」はcur、「どのようにして」はquomodoである。また、Quo vadis, Domine? (主よ、いずこへ)で知られる、quoは勿論「何処へ」である。つまり、ラテン語でもほぼ、ケ行音が、疑問詞となっている。なら、もっと古い時代のギリシャ語はどうかと、思ったが、ギリシア語とラテン語の歴史をみてどちらが古いとは言えない。ラテン語は、もともとローマの近くでギリシア時代にも話されていた言葉だから。しかし、一応ギリシア語も調べてみると、こちらの方は全く門外漢だが、どうも疑問詞は、H音や、p音で始まっているのが多いようだ。まあ、これ以上は確認が取れてからまたの機会にご報告することにする。取りあえずは、ラテン語系統の言語は、現在鳥や猿と同じように喉頭音から会話が始まって、最初はカ行音を疑問詞として使うことから始まったという、とても大ざっぱな仮説を上げておくことにします。

168.paparazzi :パパラッチ、つまり追っかけカメラマンのこと。56で一度登場しているが、再登場する。56でも述べたように、これはFelliniのLa Dolce Vita「甘い生活」の中の主人公Marcelloの相棒fotografo(カメラマン)の名前が、Paparazzoであったことによる。映画では、Paparazzoが本人の名前なのか、職業のことなのか分からなかったが、名前だったらしい。パパラッチは、1997年にダイアナ元英国王女がパリで事故死したときに、執拗に付け回したカメラマン達のことで、一躍有名になった。有名人のスキャンダラスな写真を取ることを職業としている。しかし、最近スキャンダラスなのは、写真だけではない。一般の記事自体をそのように感じることがある。La Dolce Vitaの映画の中のセリフで、「一般人:記者は嫌いだ。なぜなら事実をゆがめて面白おかしく書くだろう」「記者(Marcello):その方が、読者が喜ぶからね」というような表現があった。今の新聞やテレビのニュースはどうだろう。撮影して放映するニュース場面は、たとえそれが全体の1%であっても、見る人にはそれが全てのように見える。インタビューも、ある一方的な意見だけを主に取り上げたら、皆がそう思っているように思う。アンケートや統計資料も全体を見せるのではなく、ある些細なことに特化したものだけ見せるから、実態が掴めない。マスコミは世論を誘導しようとしているのかも知れないが、もしかしたら単に「見る人が喜ぶ情報を与えよう」としているだけかも知れない。しかし、自分で実際に物事を見ない、殆どは見れない、または見ようともしない読者や視聴者が世論となり、票に影響を与えることを恐れる政党、政府は(特に選挙が近付けば近付くほど)世論に迎合する。そうしたら、今度は世論に迎合する政府をマスコミが批判する。こうして、新聞記事や報道番組が作られていく。これを、マッチポンプという。主役はマスコミだ。勿論全てを見せるのは限られた紙面や時間にはないのは分かる。しかし、それは、もし「見る人が喜ぶ情報を与える」という観点で選択しているとしたら、言い訳にはならないだろう。「見る人が喜ぶ情報を与える」という言葉も、実は視聴率や購読数をとるため、の言い訳にすぎないのだから。La Dolce Vitaは、色々な賞を取ったFelliniの傑作だが、Paparazziやgiornalisti、そしてジャーナリズムに対する警鐘が含まれているのかも知れない。

169.manifesto(マニフェスト):張り紙、掲示のこと。この言葉は、日本では政党が(政権公約)の意味で使っていて一般的になったが、恐らくこの言葉の出もとであろうイタリア語ではそういう意味はない。強いて言うなら、マルクスの共産党宣言のことを、"Manifesto del partito comunista" と言うので、「宣言」と言う意味では使われる。公約とはちょっとニュアンスが異なる。英語では、辞書を引くと「宣言、声明書、布告文、告示」などとあるが、政権公約の意味もあるのだろうか。いつから日本語では政権公約の意味になったか知らないが、イタリア語を使うときは注意!ちなみに、manifestareという動詞には、「デモに参加する」という意味があり、manifestazioneは、「示威行動」つまりデモの事を意味する。また、manifestoは、張り紙そのものを意味することから、manifestinoと言えば、「ビラ」のことを意味する。
また、日本語では「パブリシティ」と「広告」とは、マーケティングでは分ける。簡単に言うとパブリシティは、無料の宣伝活動で広告は有料のそれである。恐らく英語では、publicityとadvertising(advertisement)のことだと思われる。英語のpublicityが日本語のパブリシティと意味が同じかどうか知らないが、ここではもう一つイタリア語にさかのぼる。これは、恐らくpubblicita`avvertimentoが語源であろう。pubblicita`は、「宣伝」「広告」で、agenzia di pubblicita`は広告代理店、film pubblicitarioはコマーシャルフイルムのことで、これは日本語ならば、パブリシティではなく「広告」に相当する。pubblicita`の語源は、pubblico(大衆、公の)であり、動詞のpubblicareは、「公表する」「出版する」という意味を持つ。つまり、もともと公共性のある告示をするという意味。一方、avvertimentoの方は、「通告」「警告」「ビラ」などの意味を持つ。動詞は、avvertireで、「通告する、警告する」という意味だ。英語だとwarnの意味になる。つまり、もともとは「警告する」ほどの意味が、「広告」という柔らかい言葉に変わったものだ。ただ、イタリア語では、「広告」と言う意味では、pubblicita`を使います。また、propagandaという言葉もある。これも広告の一種で英語も同じだが、主義,信念の宣伝、宣伝活動を言い、イタリア語とほぼ同じ意味です。
もうひとつ、例を上げると、portfolioという英語があって、日本でもポートフォリオとして良く聞く。これは、辞書を引くと「書類カバン」「大臣の職」「有価証券目録」と色々な意味があって、これでは良く分からない。もう少し大きい辞書を引くと、ポートフォリオ(金融資産の総体)というのがあって、portfolio management=(資産管理運用)とあるので、日本で良く使われるポートフォリオは、この最後の意味だなと思われる。もっと説明した文章では「安全性や収益性を考えた、有利な分散投資の組み合わせ」とあるので、これが金融界用語の意味でしょう。ところで、これはイタリア語では、portafoglioで、意味は「財布」「書類カバン」「大臣の地位」「有価証券明細表」である。大体似ているが、最後の金融界用語の意味はない。それは、英語に意味が加えられたもののようだ。言葉は、変化する。特にカタカナになったものは、日本でさらに意味が変化したと考えた方が良いかも知れない。海外で使うカタカナ外国語には注意!

170il Lei : 敬語。 先日韓国のご婦人とお話をする機会があった。お話を聞いているとふと、この方の日本語がとてもきれいなことに気付いた。日本語の敬語をとても、優雅にうまく使っておられるのだ。実は自分の日本語が恥ずかしくなってきた。この方は2世や3世のかたではなく、韓国からご主人の仕事の関係で日本に来られて、日本で日本語を学んだとお聞きした。そして、会話中心ではなく文法から、そしてきれいで正しい日本語を使うことを心がけて学んだと仰っていた。日本語の敬語には3種類ある(大きく分類すると5つあるそうだが、、)。尊敬語、謙譲語、丁寧語がそれである。尊敬語とは、相手を上位に置く表現で、「お」や「ご」を付けて言うことがこれに当たる。謙譲語は、相手よりも自分を下に置く表現で、「行く」を「伺う」と言ったり、粗品、愚妻、拙著、弊社という言葉など。丁寧語も相手より自分を下に置く表現で、~ます、~です、~ございますなどの表現を言う。いずれも、相手を上に見るか敬う表現で敬語という。言語には夫々、こういった表現があるものとないものとある。中国語には、尊敬,謙譲はあるそうだが、丁寧はない。イタリア語やフランス語は、尊敬語として2人称の代わりに3人称を使う方法がある(tu-Lei)。また、単数の代わりに複数形を使って尊敬を表す(tu-voi :これは第2次大戦中用いられ、またRoma以南ではその後も用いられていたが、今は衰退)。英語は昔thou(君)とyou(あなた:あなた達(you)という複数形を単数に使うことで敬意を表した)を分けていたが、今はyouのみ(従い単数も複数も同じ)。基本的に英語は、ラテン語やゲルマン語を簡素化した言語なので、敬語は簡素化されてしまった。英語で敬語を使うには、他の言語もおなじだが、Mr.Mrs.をつけるか、pleaseを付けることで、単語や述語が変化するものではない。但し、ラテン語における条件法や英語の仮定法表現は、丁寧語と言えるのではないかと思う。ちなみに、イタリア語ではLeiで話を交わしている相手と、親しくなったら、若しくは親しくなろうと思ったら、”Diamoci del tu?"(tuでお互い呼び合わない?)と言う。主題のil Leiは「敬語」のイタリア語訳を指しているが、正確には「敬称」であろう。敬語がない言語には、訳語がない。説明するには、parole cortesiとか、parole onorificiという。la buona parola、やdire buona parolaは、「褒める」「お世辞を言う」に近く、敬語とは異なる。さて、1971年大学在学中に初めて私は海外へ行った。旅行中にあるアメリカ人から、私の英語が正しい英語であると言われた。私自身はその言葉を、そのままには受け取らず、多分教科書英語で古臭いと言われたんだろうなと理解した。何しろ彼らが話している英語が良く分からないのに、褒められる筋合いはないのだ。一方、他のアメリカ人から単語のスペルを聞かれた。その単語は今でも覚えているが、Equivalentだ。それまで日本で中学高校と英語を勉強してきた成果がここで出てきた訳だが、恐らくこの時に私は英語の束縛感からかなり解放されたはずだ。英語を褒められ(多少の揶揄はあったにしろ)、単語のスペルをネイティブが日本人に聞いてくるのですから。きれいな発音、流暢な会話、知らない単語への恐怖など必要ない。勿論単語は知っているに越したことはないが、日本の学校はちゃんと通じる英語を教えてくれているということ。会話は年々移り変わるので、それについていく必要はあるが、まあ2~30年遅れるのは仕方がないのでは。偉そうに言える日本語を私も使っているわけではないが、最近流行りの「タメ口」しか使わない会話を耳にすると、アメリカ文化の影響だけではないだろうが、日本文化が亡くなる危機観を覚えてしまう。言語は、とても大きな文化ですから。

171.STELLA :意味は星。英語のstarと同じで、映画などの俳優、スターという意味がある。恒星の意味もあるが、一方惑星は、pianetaという。しかし、「惑星の」という形容詞は、planetarioと言う。つまり"i"が"l"に変わる。ただ、これは本当は、ラテン語の”l”がイタリア語になって”i”に変わったのであろう。イタリア語は、子音が続くのを嫌う。また、planetarioは、「プラネタリウム」でもある。従い、プラネタリウムとはもともと、惑星の運行を見るという目的だったのだろうか。今はプラネタリウムで見る星は殆ど恒星であろうから、stellarioとかスタリウムとか何とか変えた方が良いのでは?まあ、これはどうでもよいが、stellaというと、イタリアの子供の遊びに”Uno Due Tre, Stella!"という遊びがある。これは、日本の「だるまさんころんだ」と同じだ。「だるまさんころんだ」と言っても、もう分からない人がいるかも知れませんね。何しろ、そんな外で遊ぶゲームはもう流行りませんからね。イタリアでも事情は同じようです。nascondinoは、「かくれんぼ」でこれも日本と同じ子供の遊びです(遊びだったとなるのでしょうか?)。Uno-due-treは、勿論1-2-3ですね。人間はどれくらいモノを覚えられるのかというと、それは人によってはいくらでも覚えられるでしょうね。私も自慢ではありませんが、50年前に覚えた円周率を小数点30か40桁まで未だに忘れません、全く人生で意味がありませんでしたが。円周率などは100や200桁以上覚えている人は何人もいるし、今や計算でなん兆桁まで出せるそうですね。ちなみに円周率はPi grecoと言います。Pi は「パイπ」のこと。私は小学校の時の先生が言った言葉で忘れられない言葉がひとつあります。我々は1から100でも1000でも数えることが出来るが、未開人は「いち、に、さん、たくさん、という」という言葉でした。つまり4つ以上は数えられないと。この先生には色々教わることが多くてとても感謝しているのですが、この時も我々は文明人として多くの数字を扱っていかねばならないと言う意味で言われたことです。が、だんだん年を経てくるとこのことがとても意味を持ってきました。以前海外出張が多い仕事をしていましたが、家を出るときに忘れ物の確認には、(パスポート、金、チケット)とこの3つだけ。会社へ行くときは、(定期、財布、手帳)その後は、(定期、財布、携帯)に変わる。ところが、仕事が変わり鍵が必要になってきたら、これが(定期、鍵、財布)に変わった。つまり携帯が抜けて4番目になった。それで、携帯は良く忘れる。つまり、忙しい時に確認出来る数は3つが丁度良い。4つ以上になると、4つ目は何だったかな?と考えねばならない。勿論個人差はあるのでしょうが、50年以上前に聞いた「いち、に、さん、たくさん」が今はとても身近になっている。ソフトバンクの孫社長も3つにまとめるのが好きな人のようです。「日本が国際競争力を取り戻すには、まず、IT立国、そして金融立国、三番目に知識立国であらねばならない」「情報化社会で成長するには産業構造を変える必要がある。ひとつはインフラ(情報化の)、次はクラウド、3つ目が人」など(「孫正義のデジタル教育が日本を救う」から)。ご本人がいつも3つづつ上げておられるかどうかは知りませんが、3つは人が覚えやすい、または覚えることが出来る限界だということでまとめておられるのではないかとも思える。知識をたくさん披露するのは結構だが、3つにまとめることの方が難しい。私の昔の上司で、とても話がうまい方がいて、先に「言いたいことは3つある」とか「4つある」とか言う。そうすると、言われた方はひとつ、ふたつと聞いていく。熱心な人はメモまでとる。しかし、1か2で話が長くなると、3や4が出ないで話が終わることもあった。50年以上前に小学校の先生が「未開人は」と仰った言葉が、あながち「未開人」とは言えないのではないかと思う昨今である。

172.suono:音 これは良い音である。これに対して悪い音はrumore(騒音)となる。またromboは轟音であるが、他にひし形と魚のヒラメの意味もある。#153で英語を学ぶには、中国語やイタリア語を解した方が良いと書いた。その理由は、中国語は日本語と「時制、人称格、文字、音」で共通点があり、中国語は「構文」がイタリア語英語と共通点があり、イタリア語は母音を使う点で日本語と共通点があることを書いた。それを少し体系的に綴る(言語学者でもない私が体系を述べるのは恐れ多いので、綴るとしました?)。まず、日本語は言語学上「膠着語」という分類に入る(なぜこんな分かりにくい言葉を使うんでしょうか?)「膠着語」とはまず「語幹」があって、それに語尾を付けて動詞の時制変化や格変化をするものを言う。高校の時に習った5段活用とか4段活用というのがそれ。また、「彼」に「の、は、を」などの助詞を付けて格変化をさせる。同じ種類の言語には、韓国語、トルコ語、モンゴル語、フィンランド語、ハンガリー語などがある。次に中国語は「孤立語」に分類される。これらは、言葉が孤立していて、変化しない。従い、時制、格変化、数(複数変化)がない。これらの変化を持たせるには、文脈の変化、語順の入れ替え、設置詞(前置詞や後置詞)の使用をする。例えば動詞の前なら主格だが、動詞の後なら目的格となるなど。同種の言語には、ベトナム語やタイ語がある。そして、イタリア語と英語は「屈折語」に属する。この語属は本来は、ラテン語ギリシア語などで、恐らく条件法や接続法などがあり、言語そのものに非現実、主観、そして客観と現実のこと、を持たした言語でもある。そして、時制、格、数、人称など全てで言葉を変化させる。ロシア語、ドイツ語、アラビア語などもこれに属するが、実は英語はこれをかなり簡素化したものであるようだ。以上、簡単にまとめた。ああ、疲れた。これを整理したのは、仮説の証明のためだが、少し注釈が必要だろう。これはいわば文法上の分類のひとつにすぎない。例えば、同じ語属のフィンランド語は日本人には学びやすいかと言うと、この基本語順はSVOであり、日本語とは異なる。従い共通点は、語属だけで語順(構文)、文字、音は別物だから、単純に学びやすいとは言えない。そしてもうひとつ発音(または音)の問題がある。つまり、suono(音)である。「英語のスペルと発音のかい離はひどすぎる。こんな言語は他にない」と「世界中の言語を楽しく学ぶ」(井上孝夫著)に書いてある。井上氏は、100以上の言語を学んだと本のカバーに書いてあるが、この方がこう書いている。成程、確かに日本語、中国語、イタリア語は書いてあるように読めば良い。が、英語はそうでないことがとても多い。見ただけでは読み方が分からないのも沢山ある(最近の日本の子供の名前もそうですが)。そして、音素の数。音素の分け方は人によって違うが、大体に日本語は20~23音素くらいで落ちつく(文明国の言語としては大変少ない)。一方英語は、40~44ほどだと言われる。だから日本人は基本的に20ほどの英語の音素は聞き取れないのだ。中国語は30程度、イタリア語は恐らく日本語よりも2~3多いくらいだろう。従って、suonoも入れて言語を考えるなら、イタリア語には、一日の長がある。文字で中国語、音でイタリア語、これから英語に続ける方がハードルが低いのではと思いますがどうでしょうか??どうせ、英語の音の半分はrumoreだと思えば気は楽に。ちなみにrumoreは英語ではrumor、つまり「うわさ」になる。うわさは雑音程度に聞いておけば良いということ。


173.antifurto :盗難防止の(形容詞)または、盗難防止装置。一般には、車に付けるものをこう呼ぶ。今では日本でも結構車の盗難防止策があるようだが、イタリアでは盗難が多いのかこの装置は当たり前である。ドアを開けようとすると警報が鳴るもの、車が揺れるだけで警報が鳴るもの、ハンドルをしっかり固定するものなど種類は豊富だ。駐車しているところの地盤が緩いと、そばを車が通るだけでピーピー警報がなる。車の盗難には会ったことはないが、車上荒らしには何度かやられた。イタリアで車には6年ほど乗っていたが、最初の2年の間に3回被害にあった。2回は窓ガラスを割られ、1回は、ガラスは割られなかったが、ラジオを始め荷台に乗せていたものがきれいになくなっていた。手口は未だに分からないが。そのあと注意するようになった(基本的に路上駐車を辞めた)お陰かどうか、4年間は被害に会わず。イタリアは特に南へ行くと車の盗難が多いということで、レンタカーに行き先を南だと言うと料金が高くなる(保険代)か、貸してくれないところもあると聞いた。特に、ベンツなどの高級車は絶対に借りられないとも聞いたことがある。確かに盗難が多いなとは思ったし、一般にそう思われているかと思う。しかし、少し弁護すると(弁護になるかどうか)、イタリアでの6年間に自転車は一台も盗まれたことがないが、イタリアから日本に帰って来て、1年ほどの間に、我が家では自転車を3台盗まれてしまった。家(マンション)の前の駐輪場に止めていたのにだ。私は、だから、日本もひどいもんだと思っている。1980年頃だったと思うが、知り合いのオーストラリア人を車で案内し、道路に駐車した時に、鍵を掛けないで行こうとしたら、そのご婦人がびっくりして、なぜ鍵を掛けないのかと聞かれた。当時車に鍵を掛けない訳ではなかったが、今のようにオートロックや集中ロックも無かった時代で、ちょっとだけの駐車では鍵を掛けなかったかもしれない。まだ日本が安全だった時代なのだろう。1985年頃ニュージーランドへ行ったときに、オークランドである人に食事に誘われた。時間にその家へ行くと、誰もいないが、家に鍵も掛かっていない。中に入って待っていたら、彼らが食事を持って帰って来た。鍵は殆ど掛けないらしい。オークランドの湾が見渡せる、とても景色が良い所だったが、その時には世界で安全だと言うのが日本だけじゃないと思ったのだが。いずれにしろ、盗み(furto)は、こういった窃盗だけでなく、あらゆる形で世の中で行われているようだ。イタリアで良く聞くanti-という言葉に、antinebbia もある。これもイタリア北部では必需品。フォグランプの事。形容詞では、「霧対抗の」となる。Antifurtoもantinebbiaも形容詞の場合は変化しないということで、習ったかたもいると思うが。

174.ragione : 理由、理屈、道理 avere ragione 「正しい」という意味でよく使う。彼は正しいは、Lui ha ragione. で、日本語での直訳は「彼は理由を持っている」で、ちょっと理解に苦しむが、「彼は道理を持っている」と言えば「彼には道理がある」と言う意味だと推測がつく。英語ではreasonであるが、英語ではHe has a reason.とは言わないようだ。He is right.となるだろう。またreasonableは、妥当なという意味だが、値段が安いという意味でもつかわれるので、道理も安くなったものだ。イタリア語でreasonableは、ragionevoleといい、これも「妥当な」、「適切な」と言う意味で、価格が丁度良いという意味では使うが、それは高くはないという意味で、「安い」と言う意味はない。英語ももともとは、高くはないという意味だったのだろうが、cheapという言葉が「安っぽい」というニュアンスが強いために、reasonableを「安い」という意味で使うようになったのだろう。イタリア語の、avere ragioneを日本語の「正しい」と訳すのは、正しいようだが、一方これを「道理がある」として理解しようとすると、少しひっかかる。学習者には、「道理だ」と説明するのだが、「道理」というのは、日本語ではもっと深い意味を持っていそうだ。「道理とは誰が考えてもそうなる道筋である」「道理とは大宇宙の法則のことである」と、(空海、感動の人生学:大栗道栄(高野山))に書いてある。つまり、「道理」とは大自然の法則である、とすると、イタリア語で私は道理を持っているとは、なんとまあ大げさなと言う気がしないでもない。ragioneには、また、「理性」「判断」「分別」という日本語訳もある。恐らくこちらの方が、本当の意味にはちかそうだ。「私には分別がある」程度なら、宇宙の法則を持ちださなくても済む。

175. Protagonista: 主役の意味。これは、最初に聞いた時から、なんだかすごい人を表しているような音感を持って聞いた。Protoは「最初の」「第一の」と言う意味のギリシア語である。Prototipoは「原型」「プロトタイプ」のこと。Agonistaは「(運動)競技参加者」のことを指すので、proto-agonistaはつまり、最初の競技参加者、または競技の一等の人の事を指すのだろう。いずれにしろ、このprotagonistaという語感は私にはとても重い。これを単純に、「主役」と訳してしまうと、どうもなにか物足りない気がする。この言葉は、劇の主役だけでなく、何かの計画の主人公、話題の主など、の意味でも勿論使います。当然、スポーツ競技の中の主役、野球ならダルビッシュ級のピッチャーや、王・長島級の打者には、勿論そのまま使えるニュアンスだ。Primadonna もまた同じように主役の意味。一方、悪役(敵役)は、antagonistaという。Personaggioとは、劇や小説の登場人物を指す。また、重要人物、有名人などの意味でもこの語を使う。脇役と言う言葉が日本語にはあるが、それは、このpersonaggioを使って、personaggio secondarioと言う。また、gregarioと言う言葉もある。これは、ふつうは自転車のロードレースで、capitanoは勿論キャプテンだが、ロードレースはチーム競技なので、何人かが一人のcapitanoを勝たせるためにチームを組む。この場合のcapitano以外の人を、gregarioという。これは、つまり脇役のことでもある。Protagonista、personagio secondarioといっても、これは人それぞれが、これらの役をこなして、歴史がある。会社や組織では、社長や会長さんなどが組織の上では主役であるが、人生では全ての個人、全ての命あるものが主役である。ある個人の周りでは、例え社長でも、大統領でも脇役に過ぎない。人とすれ違いながら、そんなことを考える。私にとってこの人は通行人だが、この人にとってみれば同じように私も、舞台に出てきもしない、後ろ姿しか見せない、脇役にすぎないのだなと。そう思うと、protagonistaという言葉がますます重みを感じて来た。そう思いませんか?

176.Cosi fan tutte. イタリアの芸術を語るのは門外漢だが、作曲家としてのVerdi, Puccini, Rossini, Cimagori など、そしてVivaldiなど、数え上げればきりがない。このことが、イタリアを学び、イタリアを訪れ、イタリア好きを多くしている一つの、大きな理由でもあろう。そして、芸術家の中にもイタリア好きは沢山いる。ゲーテは「イタリア紀行」を書き、スタンダールは大半をイタリアで過ごした(彼にも「イタリア紀行」がある)。トーマス・マンは「ヴェニスに死す」を書き、ヘミングウエイの「武器よさらば」は北イタリアを舞台にしている。イタリアを訪れた芸術家は数知れない(詳しくは、「ヴェネツィアと芸術家たち」(山下史路)に書いてある)。そんな中で、イタリアが好きだったのかどうか知らないが、天才モーツアルトは、オーストリア人であるにもかかわらず多くのイタリア語のオペラを残している。彼のイタリア語のオペラは、Cosi fan tutte. Don Giovanni,  Le Nozze di Figaro. など所謂オペラBUFFAである。そして、ドイツ語のオペラは、「魔笛」「後宮への逃走」など。イタリア語で作ったオペラの方が多い。そして、全てがそうではないが、イタリア語のは、ブッファ(喜劇)が多く、上にあげた3つは、代表作であるとともに、いずれも男女間の浮気や放蕩な人物を描いたものであり、察するにそういうオペラが作られる背景がイタリアにあったものと思われる。上述山下女史の本にも、ベネツィアは貿易の町で、娼婦が多く16世紀初頭には人口の一割が娼婦だったとある。(なんと女性の5人に一人)従い、捨て子も多く孤児院も多かったとある。モーツアルトの生きた時代は18世紀ゆえ、時代は少し違うが、そのような雰囲気はあったのかも知れないと考える。奔放な時代に作られたオペラだが、音楽の楽しさと相まって、これらのオペラはとても無邪気な感じがする。 Cosi fan tutte.とは、tutteと女性複数になっているところが肝心で、これは「みんな」と訳すのではなく、「女とは」と訳される。つまり「女はみなそうするのだ」というオペラである。何をするのかは、オペラを見れば分かる


177.Amico  :アミーコ(友達)amicoの複数形はamiciである。実は、これは大変イレギュラーでイタリア語を教える側としては大変困る。何が困るかと言うと、イタリア語の-coで終わる単語は、複数になるときに –chiになるか-ciなる。一般にイタリア語は、語尾から2番目の音節にアクセントがあるものが、最もイタリア語らしい。従い、語尾から2番目にアクセントがある単語は、音を変えないように co(コ)をchi(キ)にする。例えば、par-co/par-chi(太い部分がアクセントのある音節)、scac-co/scac-chi、pro-sec-co/pro-sec-chiなど。一方、アクセントが語尾から3番目にある単語は、イタリア語らしくないので、co(コ)の音を変えてci(チ)とする、というのが普通の説明である。例)me-di-co/me-di-ci、sto-ri-co/sto-ri-ci(形容詞も同じ)。しかしながら、amicoは、a-mi-coと語尾から2番目にアクセントがあるにもかかわらず、amiciとなる。これは例外として説明をしているが、最もよく使われる単語のひとつだと言っても良いものなので、こういうものが例外だと困る。恐らくこれは、ラテン語の影響で、ラテン語ではciはキと発音するので元々はamiciと書いてアミーキと言っていたのだろう。それが、現代イタリア語の読み方に従って、アミーチと呼ぶようになったとだと思う。そうなると、ciであろうと、chiであろうと、元々は「キ」だったということになるのだが。実を言えば、逆に下から3番目にアクセントがあるのに、ciではなくchiに変わるものもあるのだが。それは、carico(「船積み」「積み荷」などの意味)で、これはca-ri-co/ca-ri-chiと変化する。ラテン語に戻ってくれれば、一つの音声済むのですがね。結局ひとつひとつ覚えなければ、駄目だということか。

178.Braccia: この単語は、単数形はBraccioと男性名詞で、複数になるとBracciaとなるという変わったものである。同じようなものに、指(dito-dita),唇(labbro – labbra),膝(ginocchio – ginocchia)などがある。体の一部だけでなく、壁(muro-mura(城壁))や卵(uovo- uova)また、叫び(grido - grida(人の叫び))など、沢山ある。なぜかというのは、またの機会にして、今回はbracciaについて。以前の項に、braccio di ferro 腕相撲という表現を書いた。日本語でも彼は私の右腕だとか、彼は腕が立つとか、腕を使った表現はいくつか見られる。avere le buone braccia は良く働くの意、avere le braccia lungheは力(影響力)があると言う意味で使われる。反対に、avere le braccia corte はどういう意味だと思いますか?腕が短いと、手が届かない。何に手が届かないかというと、財布です。つまり、財布に手が届かない程腕が短いので、お金を払えない。これは「ケチ」という意味です。、意外と面白いでしょう。なお、右腕は、イタリア語も同じ意味で braccio destroと言います。また、incrociare le braccciaは腕を組む(交差させる)ことを言いますが、意味は仕事をしない、ストライキをするということです。腕を組んで何もしないというわけです。腕を組んだら何もしないが、腕が短ければ財布に手が届かないと、なんとも腕は良く働きますね。

179.angolo :角、コーナーの意味である。読み方は「ンゴロ」と、aの上にアクセントがある。そのせいで、日本語のようにも聞こえる。calcio d’angoloといえば、コーナーキックのこと。cornerを使って、calcio di corner(カルチョディコルネル)とも言う。ただ単に、angolo とかcornerと言っても、コーナーキックを指すことが出来る。angolo mortoといえば、直訳そのまま「死角」となる。勿論この場合の英語は、corner(角、場所)ではなく、angle(角度)がそれに当たる。つまり、angoloは「場所」「角の場所」とともに「角度」をも表す。日本語で「あらゆる角度から見て」という場合の角度は、「視点」「考え方」という意味だろうが、そういう意味はangoloにはなさそうだ。イタリア語では、guardare in ogni angolo=あらゆる場所を見る、a ogni angolo=すべての場所、のように場所を示す意味はあるが、「見解」や「考え」の視点を表す角度という意味はないようだ。さて、英語でshotgun marriage という言葉をご存じだろうか。これは、所謂「できちゃった結婚」のことを言う。これをアメリカ人から聞いたときに、shotgunを突き付けられて結婚せざるを得ない状況での結婚だと聞いて、さすがに銃の規制が緩いアメリカだと思ったものだが、イタリア語では、matrimonio in corner という。これはコーナーに追い詰められた状態を表す。同じような表現で、salvarsi in corner はサッカー用語で、コーナーキックに逃れることをいう(ゴール近くで相手に攻められているときに、ボールをゴールラインの外に出してシュートを逃れること)。しかし、matrimonio in cornerは逃れられない。ついでに、matrimonio di convenienzaは「政略結婚」、またmatrimonio riparatore(償い婚)は、できちゃった婚と同じだが、一般にはin cornerのほうが使われる。日本語の「できちゃった婚」というのは、可愛いのかどうか、ダイレクト過ぎて味がない気もするが。

180.Bagarino  ダフ屋 :日本ではダフ屋というが、この言葉はどこから来たのだろうか。確か中国語では、黄牛というと聞いたことがある。間違っていたらごめんなさい。英語ではticket tout, scalperというらしい。ダフもどこか外国から来た言葉かなと思ったが、これは、フダを反対から呼んだものらしい。なんだ、「まいうー」みたいなものか。ダフ屋といっても、分からない人もいるかもしれないので、説明を加えると、これはスポーツや芝居などの興行の際に、券を買い占めて高く売る人のことをいう。勿論、法律では禁止されているはずだが、昨今はインターネットで手に入りにくいチケットが高値で売買されているようだから、これもダフ屋の一種かしらん。イタリアでは、サッカー場やF1のレース場などでお目にかかることが出来る。MonzaのF1のレースを見に行った時のことを話しましょう。イタリアでは、サッカーでもF1でも、ゴルフでもそうだが、当日暇が出来たとか、天気がよいからとかで、そういうところへ行くことが多い。F1レースも、当日に天気が良かったので行くことに決めた。取り敢えずMonzaの大きな公園(この中にPista=レーストラックがある)に行くと、すぐにBagarinoが近寄ってくる。最初は、2万円くらいのメーンスタンドの切符を4万か5万で話を持ち掛けてくる。私は、とてもそんな余裕はないので、一番安い3000円くらいの切符はないかというと、すぐ周りの仲間に呼びかけて、一般席3000円のものを持ってきた。3500円から4000円くらいだ。このクラスのチケットではそれほど値を吊り上げたりはしない。彼らの労力を考えると妥当かなと思って購入。ちなみに、レース終了間際になると、メインスタンドは空いてくるので、メインスタンドに移動した。満員のF1だが、交通渋滞も大したことなく、行きはほとんど渋滞なく、帰りも1時間ほど余計かかったくらいで、ほぼスムースだった。日本では鈴鹿へ行ったときに帰りは4~5時間の大渋滞だったことを思えば楽なものだった。

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