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忘れられないイタリア語の話 121-160

忘れられないイタリア語の話

  ここに書いているのは、イタリア語の単語を覚える時に、私がクラスで生徒さんに記憶にとどめて貰うために話す内容を文章化したものです。いわば講義のネタ本です。英語の単語にも元がラテン語のものが多いため、ラテン語の系統を最も受け継ぐイタリア語を知っていると自然に英語が分かります。そんなこともここで確認してみてください。


121.erba(エルバ):言葉は全てが=で繋がっている訳ではない。「何を言ってるんだこのおっさんは?」と反応された方に、説明を加えますと、例えば昔英語でリンゴはapple, ナシはpearだと習ったが、西洋のpear(イタリア語ではpera)は、日本の梨とは全く違うものだった。最近は西洋ナシとか、ラフランス(これも違うのかもしれませんが)とかつけられて区別されているようではあるが。日本で豚と呼ぶが、中国語では猪と書く。一方イノシシは野猪と書くらしい。手紙は中国語ではトイレットペーパーのことになるそうだ。というようなことを言いたかったのですが、ちょっと言葉足らずでした。それで、erbaに戻ると、これは英語ではherbと言い、日本語ではハーブ(香草)のことになる。しかしイタリア語では、「草」の意味で,香草はerba armatica(但しこれは料理に使う香草という意味)という。つまり、erbaには、ローズマリーや、セージなどのようなハーブの意味は特になく、全ての「草」のことをいう。parsley , sage, rosemary and thyme (スカボロフェアの歌詞に出てくる順番)の順に、イタリア語では、prezzemolo, salvia, rosmarino, timoと言います。日本語でサルビアと呼ぶ春から秋にかけて大変長い間咲いてくれる花がありますが、あれはイタリア語なんですね。ハーブではありませんが、viola(ヴィオラ)もイタリア語ですね。Violettaは女性の名前です。オペラのTraviata(椿姫)の主人公の名前で有名です。

122.cioccolata(チョッコラータ):cioccolataは「ココア」のことであるが、チョコレートのこともいう。cioccolatoと男性形にすると、これはチョコレートのことで、cioccolatinoといえば、小さい一口用くらいのチョコレートの事を言う。イタリアでココアを飲もうとcioccolataを頼むと、液状化したチョコレートが出てくる。このココアと飲み物のチョコレートの違いが良く分からない。日本はココアといえば、○○ホーテンのような、粉末状のものを溶かして飲むが、cioccolataほどドロドロにはしないので、どうも別の飲み物だという気がする。明治維新以来日本には海外のものが色々入ってきたが、本物はなかなか手に入れがたかった。例えば、紅茶でも普通のセイロンティーが紅茶だと思っていたが、1980年頃からだろうか段々オレンジペコーやらアールグレイやらが飲めるようになって、紅茶にも色々あるんだなと、私などは感心していたものだ。しかし、その頃イギリスへ行って飲んだアールグレイが、日本で飲むアールグレイとは全く香りも味も異なることに気付いた。今では、普通にこれらのものが日本にも入ってくるが、当時は、恐らく安い部類のお茶を輸入していたのだと考えられる。コーヒーも然り、またワインなども然り。本物を手にするまでは相当な時を要してきたのだと思う。さて、イタリア語に話を戻すと、同じものを表現するのに、男性形を使ったり女性形をつ語りするものがある。cioccolato, cioccolataも一つの例であれば、時間を言うときの30分(半)はmezzoでもmezzaでも良い。tavoloはtavolaというときもあるが、基本的にtavolaは食卓である。果物は、frutta-frutto, mela-melo, pera-pero,castagna-castagno, arancia-arancioなど、男性形と女性形があるが、女性形はフルーツ、男性形はその木である。fruttaは果物、fruttoは果実である。従い、バナナの木は、bananoという。

123.piombo(ピオンボ):ガソリン(イタリア語では、benzina)には、どんな種類があって、どんな政策が絡んでいるのか良く分からないが、日本とイタリアで、ちょっと違うなと思うのがガソリンの種類である。日本の給油所(distributore di benzina, benzinaio)では、無鉛しかないので、何も言う必要はないが、イタリアでは無鉛ガソリンがほしいなら、senza piomboという。一方、日本には、レギュラーとハイオクがあるが、イタリアは全てハイオクだから、こちらは選ぶ必要がない。 また、イタリアだけでなくヨーロッパには、ディーゼル車が多い。ディーゼルは馬力は弱いが、環境に良いと言う。ところが日本では、ディーゼルは環境に悪く、ディーゼルトラックを東京都から締め出そうとしたことがある(この話はその後どうなったのか知らないが)。結局、ディーゼルが良いのか悪いのか、未だに良く分からない。ちなみに、ディーゼル(軽油)はgasolioという。 油に関しては国策が絡んで、とにかく分かりにくい。近代の戦争は全て油が絡んでいるともいわれる。1900年の初頭以来、メジャーが力を握って、世界を支配してきた。イタリアでこのメジャーにseven sisters(Sette Sorelle)と名付け、メジャーに戦いを挑み、そしてメジャーを恐れさせ、飛行機事故で死亡した英雄(イタリアでは)がいる。彼の名前はEnrico Mattei。名前を覚えていて損はない。筆者が学生時代に、Il Caso Mattei(マッテイ事件:邦題「黒い砂漠」)という映画が公開されたが、当時アルバイトでパンフレットの翻訳のようなことをした。初めてみた、日本ヘラルド映画の試写室が未だに記憶に残っている。恐らく1972年の頃の話である。(あとで気づきましたが、1972年は日本にいなかったので、1973年ではないかと思います。尚、これを書いている時に、イランからの原油輸入削減要求がアメリカから出されているとの記事があり、理由は核兵器開発に絡む制裁措置だそうだが、言葉通りには受け取りにくい気がするのは、丁度Matteiのことを書いたあとだったから??)(追記:現在イタリアでは、全て無鉛ガソリンだそうです。尚、benzina senza piombo のことは、benzina verdeともいいます )

124.pensare: 動詞のpensareとthinkと「思う」と「考える」について:pensareもthinkも(思う、考える)と訳されるが、日本語の「思う」と「考える」は違うのではないだろうかなどと思う(考える)。「思う」は一瞬だが「考える」は間がある。名詞は、「思考」と書くが、これは「思って考える」という事で、思うと考えるは別になっている。従い、外国語は、「思う」も、「考える」も一語で済ませるとは、単純であり、東洋言語にはかなわないだろうと思う(考える)とさて、そうでもない。日本語の「思う」もかなり使い方が広い。何かへの同意を求めるときに、(君はどう思う?)と聞くが、イタリア語では、Che ne pensi? とも、Cosa ne dici?(それについて君は何と言う?)ともいう。つまり、ここでは日本語の「思う」が、イタリア語では「思う」と「(~について)言う」に分かれる。また、capireは「理解する」と言う意味だが、例えば、誰かが70(settanta)と言ったとして、貴方がそれを60(sessanta)と聞き間違ったとしたら、Ho capito 70. という。これは日本語では「私は70だと思った」である。イタリア語では、「私は70だと理解した」となるのだが、ここでも日本語は「思う」を使う。日本人は、感受性が強いので「思い」、外国人は理屈っぽいので「考える」のだろうか。どちらもあまり説得性はないように感じる(思う、考える)。 どちらかと言えば、pensareもthinkも瞬間的な「思う」の方に近いのではないかと思う(考える)。「考える」ときには、pensare beneとかthink overとか、副詞を添えて使うのではないだろうか。デカルトの「我思う故に我あり」"Penso, dunque sono.",(英語では" I think, therefore I am."というが)は、自分の存在を理解する事だとしたら、これが「われ思う~」と訳されたのは、正しいのかも知れない。しかし、この命題の説明に「自分の存在を考えることが、存在の証明だ」と日本語で説明を加えた途端に、これが意味することが分からなくなってしまう。何故なら、この命題は「思うこと」を述べているのであって、「考えること」ではないのだから。翻訳って難しいですね。彫刻家ロダンの作に「考える人」があるが、これのイタリア語訳は Il Pensatore、英語はTthe Thinkerとなっていて、これはもともとのフランス語をそのまま訳したらしい。従い、これは「考える人」と訳そうと「思う人」と訳そうとどちらでも良かったことになる。 ただ、思うと考えるを分けて表現する方法はある。それは、現在進行形で表現すること。つまり、pensareは「思う」だが、stare+pensando(現在進行形)は「考える」である。私がレッスンで、日本語には現在形と過去形しかないと言うと、皆さん一瞬変な顔をなさる。未来形もある「~だろう」がそれで、進行形は「~しているところである」というではないかと。残念ながら、これらは全て現在形の言い回しにすぎない。「形」とは、動詞そのものが変化するか、助動詞を補って形が変わるものを言うので、「~だろう」は予想を述べている現在形で、「~しているところである」は状態を述べている現在形である。勿論日本語には、英語の現在完了形もなく、イタリア語の接続法や条件法もない。外国語のこれらの(法)や(形)は、動詞に一定の意味を与えている。例えば、英語の現在完了形は、(現在までの経験)(現在まで影響を及ぼす過去の動作)を表す。He has been to England.は、彼は英国に行った(ことがある)。I have lost my key. は、私は鍵を失くした(そしてそれをまだ見つけていない)。の意味だが、文章では(  )の中のことは言っていない。イタリア語の条件法は、(ある一定の条件のもとに現実となる動作や状態)を表す。Vorrei mangiare gli spaghetti.は、スパゲッティが食べたい(のだが、持ってきてくれますか/どこかで売ってないかな)、Avrei voluto mangiare guegli spaghetti.は、あのスパゲッティが食べたかった(だが、食べなかった/食べることが出来なかった)のように、(  )の中を暗に意味する。接続法に至っては、主観的な表現を客観的表現と完全に分けたものである。Penso che lui non ci venga. 彼はここには来ないと思う。Spero che lui ci venga.彼がここに来ればいいのに。これらは、予想、希望などを述べているもので、客観的な事実ではない。つまり、イタリア語や英語にある「時制」とは、その中に意味を含んでおり、一方日本語は言葉の言い回しで表現する。読解学習で重要なのは、主語、目的語と時制である。主語と目的語は日本語では実にあいまいなので、まずこれをとらえること。時制は、既に述べたように、同等なる時制(法も含む)は日本語には存在しないことを理解しつつ、その持つ意味を考えることである。文法の話が長くなってしまった。

125.storia(ストーリア): storiaは歴史のことである。これが英語になるとstoryとなって、歴史の意味はなく、物語となる。歴史はhi-をつけて、historyとしなければならない。高校の頃、歴史を学ぶ際にこんなことを思った。我々より前の人は学ぶ歴史が少なくていいな、でも我々より後の人はもっと増えてますます大変だろうな、と。アメリカではアメリカの歴史を学ばないと聞いた。まあ全く学ばないことはないだろうが、代わりにヨーロッパの歴史を学ぶ。日本では、日本史と世界史を学ぶから、アメリカでは歴史の勉強はかなり楽でよろしい。実は英語のhistoryは、ヘロドトスが書いた「歴史」がギリシア語でhistoriaiと呼ばれ、これから派生したらしい(歴史とは何か:岡田英弘)。しかし、historiaiの意味は、「歴史」などではなく、調査研究というような意味だそうである。つまり、ヘロドトスが「歴史」を書いたころには、歴史というものはなく、物語があったにすぎない。ここで、storia(イタリア語)とstory(英語)がくっついた。なお、イタリア語では物語は、raccontonovella(小話)、romanzo(小説)などという。

126.mammonenapoletano:イタリアで地中海クルーズ(crociera)の大型船が座礁して転覆した。船長(capitano)が、乗客(passeggeri)よりも早く逃げたと問題になっている。だから、イタリア人は駄目だなどと思われてしまうかもしれないが、そんなことはない。彼が岸に上がってから、日本だと海上保安庁にあたるようなところに電話をした記録が音声で放送されている。その時に担当者は、強い口調でこのcapitanoを非難し、早く船に戻れと指示しているのだ。それが、一般的なイタリア人の感覚なら救われる。一方capitanoは、報道によれば母親に電話を入れたとある。そこで、このmammoneが出てくる。これは、イタリア語の「マザコン」に当たる。但し、この言葉はこの船長だけへの言葉でなく、イタリアの多くの男性(女性も)が、母親から独立出来ない様子を指す言葉だ。船がなぜ座礁したかについては、今後色々調べられるだろうが、船員に故郷を見せてあげる為に岸に近寄り過ぎたと言っている。私にはひとつ思い出すことがあった。あるときミラノで車が渋滞していたのだが、その原因は一台の車にあった。その車には3人の男性が乗っていて、舗道を歩いている女性の品定めをしていた。その間運転手は、ハンドルを放し車を斜めに停車させていた為、後ろの車が渋滞していたのだ。そのくるまはナポリナンバーだった(昔はナンバープレートで登録地が分かった)。この船長もナポリ出身だそうである。私の予想は、この船長は船員に故郷を見せたのではないということである。故郷を見せるくらいでは、岸により過ぎである。これ以上の邪推はやめておきますし、また、たまたま遭遇した一つだけの例を元に、ナポリ人への偏見とも取れる表現をしたことについては、訂正しておかねばならない。ただ、このような事故の報道で思ったのは、どれが事実なんだろうかということである。事実は、fattoという。fattoとは、fareの過去分詞であり、まさしく「起こったこと=事実」なのである。しかし、これが書かれるときには、誰かの主観や利害がかかわってきて、story(storia)になる。前項で述べたように、historyはstoryなのである。国家間における戦争の歴史などは、全てstoryだと思えば、いちいち間違いを論ずるには当たらない。

127.paese(パエーゼ):paeseにはふたつ意味がある。国と、村である。実は英語でも countryには、国と田舎(地方)の意味があり、日本語も「くに」は、国と故郷の意味がある。日本人同士で「おくにはどこですか」と聞いたら、県や市のことだ。何故国と田舎(もしくは村)が同じかというと、誰でも想像はつくだろうが、昔の行政単位は小さく(日本なら各藩)それを国と呼んでいたからだろう。ただ、日本はこの20~30年の間に、主として効率化を目的として市町村合併が行われて来た。その効果がどれくらい現れているのか、実態は分からない(どうせ、役所から出てくるデータは「成果がある」というものだろうから)。私のあいまいな記憶では、30年ほど前には日本で5000ほどの行政単位(市、町、村)があり、それが2000ほどに減ったはずだ。イタリアはもともと日本の半分の人口で、行政単位が8000ほどもあった。同じ様に、経費節減で合併をはかったが、殆ど成功せず今でも相変わらず8000ほどある。理由は、歴史的な問題である。イタリアは町、村がくっついていることはまずない。必ず、間に農村、林、川などがあり離れている。昔から離れているので、例え5kmほどしか離れていなくても、それぞれの文化を持っている。これを合併させろなど、無理な話だと反発があったと聞いた。この行政単位のことをcomuneという。イタリアのComuneの歴史は古く、10世紀ころから発達しているので、現代人が簡単にそれを変えていいのかの問題もあるのだろう。恐らく経費的には効率は悪いのだろうが、文化は守れている。尚、paesaggioは「風景」、paesanoは「地方の人」の意味である。日本語の(田舎者)という馬鹿にした言い方ではない。それはcafone(但し南イタリア方言)という(覚えなくても良い)。

128.latino(ラティーノ):ラテン語のこと。殆どの欧州言語のもとであり、もともとはラティウムという地方の言語。ラティウムとは今のLazio州あたりのことを言うらしい。ラテン語には古ラテン語(~BC2世紀)、古典ラテン語、俗ラテン語となどと称されるものがあり、細かい説明は専門家に譲る。要するに俗ラテン語が、イタリア語を始めとしてフランス語、スペイン語などのロマンス語系といった言葉に発展していった。ドイツ語もラテン語の影響を受けており、更に英語はラテン語、ゲルマン語、ケルト語から作られているという。ケルト語についても現在すでに残っていない(らしい)。ケルトとはギリシア語でガリアの意味だそうで、もともとはフランスのアルプス地方にすむ民族のこと(だそうだ)。ケルトとはceltと書き、現在ではアイルランドかスコットランドに住む民族とのことになってこれらが後に移住したのだろうか。どうも複雑である。以前に中村俊輔というサッカー選手が属したスコットランドのサッカーチームは、Celticというが、これはセルティックと呼んでいた。当校にイギリス人講師に聞くと、celtと書いてセルトと読むかケルトと読むかは、彼らも分からないそうで、習慣に従っているとのこと。イタリア語では書いたとおりにcelta(チェルタ=ケルト人)と呼ぶ。ゲルマン語もそれ単体としては、ラテン語やケルト語と同じく残っていないが、ドイツ語や英語がゲルマン系言語と言われる。英語はゲルマン語から7割の構文を受け、ラテン語から7割の語彙を受けていると言われる。何れにしろ言語の歴史を辿ると、日本語はどこにも行きつかない(今のところ)ので、欧州言語を母国語に持つ人にとって、お互いの言語がそれほど難しくないのは羨ましい限りだ。イタリア語で、buongiornoやciaoの代わりにsalve!という言葉があるが、これはラテン語。また、Lazio州にLatinaという町があるが、これは実は新しい町である。1932年にファシスト政権のもとで作られた町で、元の名前を”Littoria"と言った。littorioとは、古代ローマの権力の標章で、ファシスト党のシンボルとして使った。戦後連合軍がその名前を嫌い、Latinaと強引に変えた。

129.focaccia(フォカッチャ):ピザでもなく、パンでもなく、ケーキでもないが、地域によってはそのどれかと思われていることもあるようだ。focacciaは、だいぶ古い時代からあるそうだが、最も代表的なのはリグリア(ジェノバ付近)地方のfocacciaだ。Olio di olivaやハーブなどを添えて食べることが多い。最近は日本でも売られているので、名前は浸透してきたようだ。イタリアでパンのようなものを食べる時には、それぞれ呼び名が違うので苦労する。pane,panino,tramezzino,cornetto,briocheはコラム82で既に述べた。grissiniは、細い乾パンである。panettoneはクリスマス用の大きなケーキ。panzerotto(panzarotto)は、108項でで既に書いたが、一般にPugla地方のPizzaのcalzone(Pizzaを折りたたんで、その中に詰め物をいれる)だと言われているが、ミラノのDuomoの裏の有名なpanzerottoはちょっとpizzaとは思えない。(元々はPuglia州からやってきた人が開始したもの。売っているお店の名前もpanificioというので、これはパン屋の意味だ)。pastaと言えば、パスタ(スパゲッティやマッケローニ)の事かと思うと、これはケーキの意味がある。従い、pasticceriaというとこれはお菓子屋(ケーキ屋)のこと。しかし、一方、日本にはビスケットとクッキー、そしてサブレなど、形状なのか製法なのか材料なのかで別れているが、イタリアではbiscottiと呼ぶ。イタリア人にとっては、呼び名に困ることだろう。食べ物は、本来ところ変われば品変わってこそ面白い。どこでも同じものが食べられるのでは旅行の楽しみもなければ、特産品の意味もない。

130.gravita`(グラヴィタ):重力のこと。先に歴史(History)はstory(物語)だと書いた。しかし自然科学の分野も、実は仮説ばかしで、真理(不変の真実)というものはないらしい。Nord Sud Ovest Est (北南西東)は、昔883(オットオットトレ)というグループが歌っていた歌の題名だが、イタリアでは方位はこの順序で言う。ひょっとしてキリスト教信者の十字の切り方と関係あるかと邪推したが、これは根拠はない。日本語では何故、東西南北(イタリア語と順序が反対)というのだろうか。それはここではどうでも良いが、方位は地球の上だけの話で、宇宙へ行けば北も東もない。もともと北は北極の方向だから、北極を超えれば指針とするものがないのだから。つまり真理ではない。上下もない。左右は多分、自分から見ての事だから宇宙へ行ってもあるだろうが、もともと可変のものだから真理などではない。月に降りれば、月の重力があるから、上下はあるが、宇宙船の中では上下はない。厳密にいえば一番強い引力の方向が下になるのかどうか、私は知らないが、写真をとって人が横になったり逆さまになったり見えるのは、カメラの固定位置から見てのことであって、人は逆さまになっている訳ではない。もともと重力はないのだから。宇宙の話は仮定の話しばかしだ。実証して初めて認められるが、反証されれば、例えノーベル賞を取った学説でも消える。逆にいえば、反証されない限り常に仮説として生きる。そうすると英語の学習方法などはみな仮説だろう。この方法が効く、あのシステムが一番、聞き流しで身につく、睡眠学習だの胎児教育だの仮説ばかり。それが嘘だと誰も反証はしないので、仮説が消えることはない。マイナスイオンが体に良いとは、科学的に何も根拠がないそうだが、反証するデータが何もないので、これも仮説のまま生きている(のかどうか興味もないので知らないが)。さて、Gravita`に戻る。gravita`はgraveと関係がある。graveは重いという意味で、malattia grave(重病) 、problema grave(重大問題)の様に使用される形容詞である。つまり、これは重い力の意味を持つ。イタリア語では、引力はattrazioneというが、これは引く力の意味で重力ではない。日本語ではニュートンの「万有引力の法則」というが、英語でもイタリア語でも引力という言葉は使わず、Legge di gravita`(Law of gravity)という。万有引力もgravitazione universaleとなる。言葉は、その言葉を使う人にある種の先入観を与える。日本人は、引力だから物体が引く力だと考えるだろうが、イタリア人はGrave(重い)forza(力)だと思うのではないだろうか。なお、妊娠のことをgravidanzaというが、これはやはり重い(身重)からきているのだろう。

131.delittopunizione : これはイタリア語では、「罪と罰」である。ドストエフスキーの罪と罰は、1866年に刊行された。実は、Giuseppe VerdiのオペラRigolettoの中にも、delitto とpunizioneが出てくる。愛する娘を放蕩なMantova公爵に奪われ、娘がもてあそばれていると悟ったRigolettoは、復習(vendetta)のため殺し屋を雇う。殺し屋が、相手は誰だと聞くと、Rigolettoが、彼は Delitto, 私は Punizioneだと述べる。Rigolettoは、原作がビクトールユーゴーだと言われるが、原作にこの言葉が入っているかどうかは知らない。しかし、ラスコーリニコフ(ドストエフスキー、「罪と罰」の主人公)という大主人公を得た小説が作られた同じ時代に、同じ言葉が出てくるのは面白い。Rigolettoの初演は「罪と罰」の発刊より前の1851年である。さて、Rigolettoで最も有名な歌は、"La donna e`mobile."(女心の歌)だろう。 La donna e mobile. Qual piuma al vento, muta d'accento e di pensiero.Sempre un amabile,leggiadro viso,in pianto o in riso, e menzognero. (女心は移ろいやすい。風にそよぐ羽毛のように。言う事も、気持ちも直ぐ変わる。いつもいとおしく美しいが、泣いていても笑っていても、それは全て偽り)(筆者訳)この歌は、Operaの中で3回歌われる。最後は、Mantova公爵を殺したと言った殺し屋が去った後、宮殿からこの歌が聞こえ、Rigolettoは殺されたのが、公爵ではなく自分の娘が身代りになったことを知る。Verdiの悲劇の中でも最高の作だと私は思うが。なお、punizioneの方は、サッカーのペナルティキックの意味でもつかわれる。VerdiのOperaについて少し続けよう。俗にVerdiの三大悲劇と呼ばれるのは、Rigoletto,La Traviata, Otelloであるが、Il trovatoreも悲劇である。La Traviata(椿姫)では、最初に出てくる歌が「乾杯の歌」として有名です。ここで、乾杯はLibareという言葉を使っている。Libiamo!と高らかに歌い上げるので有名。ところが、このlibareという言葉は今では殆ど使われない。「乾杯!」は alla sua salute! とかまたは、Brindisi!という。このBrindisiという言葉はまた面白い。これは、ドイツ語のBring dir'sから来たと辞書に書いてある。としたら、一体いつ頃出来た言葉なんだろうか。またBrindisiとは、Puglia州のLecceに近い港町の名前でもある。ここはギリシアへ行く船の乗り場でもあり、私は大分昔にここから船に乗ってギリシャへ渡ったことがある。丁度土曜日か日曜日かでサッカーの試合が終わった後、多分勝ったのだろうが夜中まで町中が騒々しかったのを覚えている。この港を出て、どこかへ行く人に対してBridisi!と祝った事から付いた名前だろうか?それとも、ここは古代ローマのアッピア街道の終点でもあったことから、着いた時に乾杯でもでもしたのだろうか。考えてみると面白い。ただ乾杯の意味のBrindisiは上述の資料の様にドイツ語から来たのかもしれないが、こちらの都市の方はどうも年代が合わない。Brindisiは、イタリアでもかなり古い町で、古代ローマは固よりその歴史は青銅器時代(紀元前12~30世紀)までさかのぼるらしい。従い、この町の名はBronzo(青銅)から取ったという説の方が近そうだ。 イタリアの都市名で意味があるものを探すと、例えばDomodossolaという町は、Duomo d'Ossola(Ossolaの家)という意味から来ている。尚、イタリアの都市名でDから始まる都市は珍しい。Civitavecchiaは、古いCivitaである。日本の漫画にはのびた君というのがあるが、Novitavecchiaがあれば面白いなと思っているのは、、、少し脱線しすぎたようです。これくらいで。

132.inno(インノ):前項の続きから書き始めるが、Civitaとはcitta`のことである。そして探してみたらやはりあった。Civitanuovaという町が。シチリアのど真ん中にCaltanisettaという町がある。meteo(天気予報)を聞いていると、Caltanisettaがsereno(晴れ)だとか、nuvolo(曇り)だとか言っている。面白い名前だなと思っているといつも気になってしょうがない。カルタに雪駄である。この町の名前はArabo(アラビア語)で、castello di donna(女性の城)という意味だそうだ。Siciliaは、Greco(ギリシャ人)、Arabo(アラビア人)、Normanno(ノルマン人)、Spagnolo(スペイン人)の支配を受けた歴史があり、文化は様々である。また、Campania州にBeneventoという町がある。昔はMaleventoと呼んだそうだが、それでは良くない(Male+eventoは悪い出来事、または場所とか市場とかの意味がある)ので変えられたそうだ。この町も相当古い町でギリシア時代にさかのぼる。さて、主題に戻るとinnoとは、讃美歌の意味だが国歌の意味もある。この場合は、Inno Nazionaleともいう。イタリアの国歌はちょと複雑だ。普通は、Inno di Mameliとその作詞者の名前で呼ばれる。若しくは、Fratelli d’Italiaという歌の題名でも呼ばれる。または、Il Canto degli Italianiと呼ばれる様だ。イタリアの国歌に触れるのは、ちょっと僭越かなという気はするが、入ってしまったのでそのノリで少し進めることにします。何故国歌をここで登場させたかというと、前回からVerdiを上げているが、イタリアの国歌にはVerdiが大きく関わっている。現在の国歌(とはいってもこの歌が正式に国歌として法律で認められたのは、つい2005年のことなのだが)の編曲はVerdiだ。しかし、もっと大きい関わりは、イタリア人の中で現在の国歌をあまり評価しない(というのかあまり好きじゃない)人がいて、ひそかにVerdiのオペラのNabuccoに出てくる、(行け我が想いよ、金色の翼に乗って)という合唱曲を第二の国歌と認めているという話を良く聞く。(余談だが、NabuccoはNabucodonosorのことで、高校時代にネブカドネザルという名前で覚えた。歴史の教師が、この質問を出して、生徒が答えに窮すると「さあ、昼ご飯を食べるとそろそろどうなる?」とヒントを出していたことを思い出す。私は九州だが、(眠い)を(眠か)とはいったが(ねぶか)とは言わないと思うが、もう良く分からない)。で、なぜこの歌がイタリアの(第二の)国歌なのだろう。この歌は、バビロニアに幽閉されたヘブライ人(ユダヤ人)が祖国エルサレムへ帰ることを願った歌である。宗教問題は、その歴史の信憑性とも絡んで複雑なので、ここでは触れないが、キリスト(Gesu`Cristo)はユダヤ人である(だそうである)。そして、ローマはキリスト教を迫害したが、紀元4世紀に突如キリスト教を国教と定めた。キリスト教はユダヤ教から派生したもの(だそう)だが、勿論Nabuccoの時代にはキリスト教はない。つまり、Nabucco(バビロニア)とヘブライの関係は、イタリアとは関係がないのではないのか。国歌が作られた当時当時イタリアはオーストリア支配下にあり、自由を勝ち取りたいという気持ちがこの歌と繋がったという考えもある。実際イタリアの友人に聞くと、彼はNabuccoの歴史背景とはあまり関係なく、ただオーストリアからの独立という気持ちだけでこの歌を国歌と考えていると言っている。この歌が初演の時に、イタリアの観衆に大きな感動を与えたというStoriaがある一方で、いや本当に感動を与えたのは他の歌で、のちにこの歌を国歌としたい人が、そういう話(Storia)を作り上げたともある。結局、イタリアの国歌はInno di Mameliになった。この歌があまり好かれていないのは、その歌詞にある。2番だが、国のために死ぬと言う言葉が繰り返される。また、あまりにも行進曲調のメロディーが国歌に相応しくないとも言われている。国の団結心を煽る歌詞は、イタリア統一という場面にはふさわしいが、現在の国民にはしっくりと来ていない様にも見える。

133.calcio (カルチョ): サッカーのことである。「蹴る=キック」という意味もあるので、dare un calcio a~で~を蹴飛ばす、とか prendere~a calcioも~を蹴飛ばすと使う。また、「キック」という意味から、calcio di rigore=ペナルティキック、calcio d'angolo=コーナーキックのように使います。calcioのことは、詳しい人も多いでしょうから、素人の私が細かい説明は遠慮しておきます。ただ、イギリスで発祥したとされる、サッカーは世界では概ねfootballと呼ばれます。大体その国の言葉で、足+ボール、若しくは、footballを外来語として自国の言葉にしてるようです。例外は日本とイタリアぐらい(他にもあるでしょうが、知らないので)。日本語は「蹴球」と言って、蹴ると言う言葉を使っているのが、イタリアと同じです。(蹴球は日本語で、中国語では「足球」という)ここにイタリアと日本の共通点がひとつある、と言いたいだけの話でした。蹴球といっても、ピンとこない人の方が多いかもしれませんが。また、アメリカ、カナダ、そしてオーストラリアでは、footballは夫々American FootballとAustralian Footballのことを指すので、Soccerが使われます。soccerは、その昔イギリスでサッカーが球技として確立した時に作った協会 Football Associationの Assocから来たそうです。英語の事はどうでもいいですが、一応 Football-Calcio(蹴球)-Soccerと3つの呼び方があるということで。また、calcioはサッカーやキックだけの意味ではなく、カルシウムの意味もあるので注意しましょう。尚、フットサルという競技がありますが、この名前はサロンフットボールから来ています。当然イタリア語ではありません。1990年頃にイタリアでは既に結構盛んだったようでが、私にはFOOTSALと呼んでいた記憶がない。確か、mini-calcioとかcalcio a cinque(5人制カルチョ)と呼んでいたように思うが、調べたらmini-calcioではなく、calcettoが正しいらしい。mini-calcioはひょっとしたら、日本人同士で呼んでいた呼称かもしれません。意外と海外に住んでいても、日本人だけでつけた名前がたまにあるので、これは注意が必要。さて、calcettoに移ると、欧州や南米に行くとBarや人が集まる場所に置いてある昔からのサッカーゲームを見たことがあるでしょう。左右に取っ手がついていて、勝負するもの。これもcalcettoといいます。calcettoとは勿論、calcio+ettoで縮小辞をつけたものですから、そのままミニカルチョの意味です。このcalcettoは、彼ら(イタリア人やスペイン人など)の強いこと。私は歯が立たないどころか、どうにもなりません。彼らはあの機械を自由自在に操って得点をします。2対2で勝負を始めると、大人であろうと子供であろうととても真剣で、それに観客が集まってとても白熱します。本当に歯が立たなかったけど、あれは、結構面白いゲームでしたね。なぜ、日本で流行らないのかと思うくらいです。追記:Calcetto(giocoの方)は、またcalcio Barillaとも言います。

134.macchina(マッキナ):機械または車のことを指します。macchina fotograficaは写真機(械)、macchina da proiezioneは映写機、macchina da cucire(ミシン)、macchina da scrivere(タイプライター)のように使うので、日本語の~機のように分かりやすい。cameraは何故cameraというのか知らないが、イタリア語でcameraと言えばご存じのとおり「部屋」の意味でカメラとは関係がない。 autostradaは高速道路のことだが、イタリア語では車(auto)の道(strada)である。英語のHigh-wayは「公道」とか「幹線道路」の意味で、高速道路の意味はない。日本語でハイウエイというと高速道路だが、厳密に言うと高速道路はExpresswayといい、辞書によればこうよぶのはアメリカのみで、有料の高速道路とある。欧州は無料のところもあるので、そうするとExpresswayは当てはまらないことになる。イタリア語のAutostradaは結局は、車専用道路という意味で、人は通れないと言う意味である。そうすると結局スピードが出せるので、日本語では高速道路と呼ぶ。イタリアには、superstrada(スーペルストラーダ)というのがある。これは、無料の自動車優先道路のこと(autostradaは有料)。これらの単語には、どこにも「高速」という言葉は出てこない。しかし、私は一度あるイタリア人の助手席で、superstradaで時速260kmで飛ばした(ばされた)経験があるので、やはり「高速道路」である。イタリアの車に乗る習慣を少し上げておくと、友人等が車を運転してくれる時は必ず助手席に乗ること。遠慮して後部座席に乗ると、友人を単に運転手としてしか見ていないと思われるかもしれない。Taxiなどでは、助手席に乗るのを嫌がる人もいるが、田舎へ行くとTaxiでも助手席に乗せられることがある。友人扱いしてくれているのか、後ろに乗ってHold Upでもされたら怖いと思っているのかも知れない。フランスは助手席に良くペットを乗せている。こういう人は、助手席に乗られたくないようだ。日本と違う事の一つに、コートを着たまま乗って、運転している。これはなぜか? イタリアは買い物にも食事にも路面店が多い。つまり、外を歩くことが多いからだろうと予測している。日本では、買い物はデパートやショッピングセンター、レストランも大きな建物の中が多くて、そういうところは、場所によっては駐車場から外に出る必要がなくコートが不要。これは想像だが、このような文化様式の違いも考えてみると面白いかもですよ。

135.La Senna: セーヌ川のことである。貴方の知っている川の名前を上げて見て下さい。il Po, il Tevere, L'Arno, などイタリア語の学習で出てくるイタリアの川は皆男性ですね。川はfiume(男性)だから男性形だと思っていませんか。il Danubio(ドナウ川)、il Reno(ライン)、il Meno(マイン)、il Volga(ボルガ)そしてil Mississippi、l’Amazonなども皆男性形です。多摩川、神田川、隅田川など、-aで終わる川の名前は、男性か女性か? どうも、川だからと言って男性形とは決まっていはいないようですが、大体男性形のようですね。こういうのをイタリア人に聞いても、はっきりした答えは返って来ません。決まっていないと言う人もいれば、fiumeが男性形だから、男性形じゃないかという人もいます。じゃ、La Sennaはどうなんだと問うと、それは例外だとなる。私のいじわる質問は続く。では、山は? il monteとも言うが、la montagnaと女性形もあるでしょうと。il (monte) Fujiやil Monte Biancoは男性形。l’Everestも男性形、でもCiomoramma(というかどうか知らぬが)はどうなんだろう。取り敢えず"山”はどうも男性形のようだ。では、山脈は? le Alpiは女性形で、gli Appennini(アペニン山脈)は男性形。これが、なぜかという説明はなかなか得られない。そう決まっているし、イタリア人にとってはこの二つの山脈しか興味がないので後はどうでも良いとなる。でも一応、le Montagne Rocciose(ロッキー山脈),le Ande(アンデス山脈)、le Montagne dell'Himalaia(ヒマラヤ山脈)と、山脈はmontageで表すので女性形となる。だから、gli Appenniniは例外なのか? 恐らく、これらは固有名詞なので、le montagne をつけて山脈を表す場合は、女性形になるのが普通なのだろう。固有名詞としてAppenniniと呼ぶ時は「山脈」とは呼ばないのだと思われる。日本語にする時には「アペニン山脈」というが、イタリア語では、例えば「アペニン地帯」的な意味で呼んでいるのではないのだろうか。Himalaiaに関して言えば、この単語だけでは男性名詞である。実際ヒマラヤ山という山があるわけではない(あるのかどうか実のところは知らないが)。あの地帯の事をヒマラヤと呼ぶ時は、男性名詞で、山脈と言いたければle Montagneを付けて女性形にするということなのだろう。ちなみに、会社の名前はどうなんだろう?これは、殆ど女性形になる。知っている限りの会社の名前を挙げても全部女性形だ。しかし、会社の名前が女性形だという決まりはない。l’Honda, la Toyota, la Fiat, la Microsoftなど、全て女性形だ。これは、恐らくditta(会社)が女性形によるものだという。しかし、例えば、la Seibuといえば、SEIBUという会社になるが、grande magazzinoは男性形なので、[SEIBU百貨店」はこの道理だと男性形 il SEIBUになる(grande magazzzinoではなく、centro commercialeからの連想かも知れないが)。La Sennaに関しての続報をここに書く。フランス語では川は女性形だそうである。従い、セーヌ川は女性形で良い。もしかしたら、フランスの川は女性形?かと思って調べたら、il Rodano(ローヌ川)は男性形だった。小さな川は分からないが、やはり男性形なのだろう(フランス語では女性形)。尚、mare(海)もイタリア語では男性だが、フランス語では女性形(ラ・メール)。Mediterraneo(地中海)は男性形だが、フランス語では女性形だそうだ。

136.direttore(ディレットーレ):肩書きの話をしよう。イタリアでは肩書は重要だ。~さま(さん)の敬称は、signoreだが、大学を出ると dottoreになり、普通はsignoreではなくdottoreと呼ばねばならない。法学博士ならavvocatoと呼ぶことなどは、102項で述べた。direttoreはかなり広範囲な地位を表します。部長、所長、局長、取締役、オーケストラの指揮者、映画などの監督、スポーツの監督、指導者、新聞社なら編集長など。小さい会社なら社長かも知れません。また、「社長」はdirettore generaleと呼ぶのが普通です。presidenteも使いますが、この場合は会長のことがあります。consigliereも取締役の意味ですから、consigliere delegatoと言えば、代表取締役に当たります。また、amminisitratoreも管理者の意味で、経営者を指すことがあります。amminisrataore delegatoは、これも代表取締役の意味です。ある会社を訪問して、偉そうな人と名刺を交換したら、ある人はdirettore generale, ある人はmanaging directorと英語表記、ある人はpresidenteとの肩書きで、一体誰が一番偉い人なのかさっぱり分からない事がありました。また、一つの会社で、二人からpresidenteの名刺をもらったこともあります。この二人の場合は、日本語で言うところの、1人が社長で、もう一人が会長に当たると聞きましたが、はてさて大変分かりにくいことでした。皆さんも経験がありますか?

137. dura(ドゥーラ):La vita e` dura.(人生はつらいね)というのは、私がイタリアで最初にお世話になったアパート(というよりも部屋貸しの下宿)のおばさんがいつも言っていた言葉。La vita e` bella.は映画「ビューティフルライフ」のイタリア語題名。La vita e` duraといいながら、bella vitaを送っているのがイタリア人、というのは前にも書いた。duroが勿論この形容詞の原型だが、敢えてduraとしたのは、この形容詞の特殊性を言う為。動詞の不定詞をそのまま「~すること」という名詞で使う事が出来るが、殆どの場合その名詞は男性形になる。例えば、E` vietato fumare. Imparare le lingue straniere e` necessario.のようなります。しかし、duroだけは、どういうわけか女性形を取ります。E`dura alzarsi presto.(早く起きるのはつらい) E' stata dura convincerla ad andare da sola.(彼女を1人で行くように説得するのは大変だった)なぜかは、良く分からないが、最初に上げたLa vita 当たりのイメージがあるんじゃないかと(勝手に)思っている。 また、belloという言葉も特に意味もなく、良く出てくる。訳に困るが、ほとんどの場合、美しいとか素晴らしいとかを日本語訳の中に入れることは、考えない方が良いかも知れない。多少そういうニュアンスがあるだけ。 Che fai di bello?(何か(面白いことでも)あるかい?)Una bella mattina, e` venuta a casa mia.(ある朝=特に天気が良いとかは関係ない=彼女は私の家へやってきた)Ha detto bel no.(彼は絶対いやだと言った)

138.veneziano: ベネツィア人、またはベネツィアの形容詞であるが、ケチと言いう意味もある。このことは、一度76で紹介済だがもう一度登場させよう。venezianoがケチなのは商業で栄えた場所なので、とにかく金に細かいということからこういう評判を貰ったようだ。同じ様に、大航海時代(15世紀から17世紀のポルトガルの隆盛、マカオ割譲、日本へもやってきた時期。そしてアメリカ大陸発見、オランダやイギリスが東インド会社を設立したなどの時代のことをこう呼ぶ)に、イギリスと海上の覇権を争ったオランダもそのような汚名を受けている。英語でgo Dutchとか treat Dutchとかは、一緒に食べても自分の食べた分だけを払う事をこういう。日本語では「割り勘」と訳されているが、日本語の割り勘は頭数で平等に割るものだとしたら、これは適当な訳ではない。ところが、実際色々見てみるとgo Dutchを平均して払う割り勘だとしているものもあるので、確実ではない。しかし、go Dutchとは英語なので、これは英国人が、当時争っていたオランダ人を揶揄して言ったもののはずなので、決してほめ言葉ではない。つまり、ケチな彼らはおごることは絶対なく、いつも自分が食べた物だけを払うということなのだろう。このテーマを上げたのは、イタリア語では割り勘のことを、pagare alla Romana(ローマ式に払う)というからだ。実は、これは日本と同じく、人数で割って払うことをいうらしい。何故なら、この表現のRomanaは、人が良く,仲がいいのでこういう風に払うと言う意味があるから。つまり、もしケチだからそれぞれが食べた物を払うというのなら、pagare alla venezianaというべきではないか?残念ながら、この表現はイタリア語にはない。尚、日本ではベネチアンというと、ベネチアングラスとかベネチアン刺繍が有名だが、それぞれMuranoとBuranoという島で生産されている。サンマルコ広場へ行くと観光客向けに水上バスがあって、Murano島へ無料だとの呼び込みがある。勿論Murano島へ連れて行ってガラス製品を買って貰おうとのビジネスである。一方Burano島はそれほど有名ではない。Burano島には一度行ったことがあるが、ここで生産している刺繍(ricamo)はとても高価なもので、一般の観光土産店で買うには、確認が必要。一般のものより10倍ほど値段が高いと思っていた方が良い。一般のものとは、中国産だそうである。そういえば、スワトウの刺繍技術はもともとベネチアから伝えられたもので、結果的にはベネチア刺繍の委託生産先になっている。日本でもスワトウハンカチなどの名前で有名。私もスワトウ(汕頭)の刺繍工場には行ったことがあるが、技術は素晴らしいもので、今ではスワトウ刺繍として有名。ハンカチでも1万円を超え、10万円を超えるものもあるが、これらは額縁に入れて飾るものの様だ。なお、venezianaと女性形にすると、これは「ブラインド=すだれ状のカーテン」のことを言います。

139.mecenate(メチェナーテ):これはメセナのことです。つまり文化文芸の保護者、またはパトロンのこと。この名の由来は、ローマ時代のガイオ・メチェナーテ(ラテン名:Gaio Mecenae)から。初代皇帝Augusto(つまりオクタビアヌス)の腹心で、若い詩人たちを擁護したことから、その名が文化財や芸術のパトロンとして残りました。そしてこの言葉は、金銭的に文化を擁護したというところから、食事をおごってくれる人のことを呼ぶのに使われます。勿論これはかなり口語的な表現で、冗談めかした言い方ですが、、。食事の支払い方には、「おごる」と「割り勘」そして、go Dutchの「それぞれが払う」とあると、少し整理ができました。但し、Go Dutchに関して、ここまで読んでくれた人の為に、私の調査結果を報告しておくと、発祥地であろうイギリス人の英語講師に確認したら、go Dutchはいわゆる「割り勘」の意味で現在使われているとのこと。本来の意味で使う事もまれにあるが、普通は頭数で割ることをいうらしい。日本国内でもそうだと思うが、その土地土地によっての習慣があり、割り勘と言われた場合に、それが日本式の割り勘なのか、各人食べた分だけ払うのか確認した方が良いかも知れません。人の名前を使った表現としてもう一人上げておきます。ローマ時代の有名人の一人Nerone(皇帝ネロ)は、残虐な皇帝として有名ですので、neronianoという形容詞は、「残虐な」という意味です。またメセナと並んで使われるフィランソロピー(博愛、慈善、慈善団体、または人類愛など)のことはfilantropiaといい、こちらは個人名とは関係ないようです。

140. carte(カルテ):cartaの複数で、カード遊び(トランプ)のことである。日本のカルタがポルトガル語というのは有名な話だが、勿論単数はcarta(紙)の意味である。ドイツ語のカルテは、病院で使われる様だが、イタリア語にはそういう意味は特にない。英国の大憲章のことをマグナ・カルタと呼びますが、勿論これはラテン語です。cartaは憲法、憲章という意味もあります。さて、イタリアのcarteをひとつ紹介しておきましょう。日本には独特の花札という遊びがありますが、どこの遊びでもカードを使ったものはどこか似ています。scopa(スコーパ)はイタリアではとても人気のカードゲームです。カードや遊ぶ方法は地方や、人によって色々と異なりますので、これから紹介するのは一つの遊び方です。やってみると大変おもしろく、時の経つのを忘れますよ。手許にカードがないと分からないでしょうから、トランプを思い浮かべて下さい。イタリアのcarteも4つの種類があります(スペード、ハート、ダイヤ,クラブのように)。それらは、denari(硬貨)、coppe(杯)、spade(剣)、bastoni(棒)の4つです。そしてそれぞれ1~10までの数があります。従い合計40枚が使用されます。1~7まではそれぞれの数を数えますが、8はFante(歩兵=英語のJack)9はCavallo(馬、または騎兵=knight)10はRe(王様=King)です。遊び方は単純です。単純な方が覚えやすく誰でも遊べるからでしょう。2~4人で遊ぶのが一般的な様です。3枚づつ後ろにして配り、4まいを表にしてテーブルの真ん中(場)におきます。手持ちのカードと場のカードが同じ数字なら場のカードが取れます。場のカードは2つ以上合わせることも出来ます。(手持ちが8で場に2と6があれば取れます。反対は出来ません=手持ちで使えるのは一枚だけ。)合うものがなければ、手持ちのカードを一枚、場に出します。3回、回れば手持ちが無くなりますので、もう一度配ります。配るのが亡くなったら終わりです。場に1枚残っていて、次の人が手持ちのカードでこの一枚を取ることが出来たら、それをscopaと言います。scopaは「箒=ほうき」の意味です。さて、全部なくなったら得点を数えて、記録します。得点は次の様な計算をします。まず、①scopaをやったら1点です。従い後で計算するときに分かるように、scopaでとったcarteは裏返しにしないで表にしておきます。次に、②全体で最も多くカードをとった人は1点貰えます。次に、③Coppeを最も多く取った人は1点です。(CoppeではなくDenariとする人もいます)。次に④7をとっていれば、7一枚に付き一点です。(これも、得点になるのはdenariの7だけだというルールもあります。denariの7は、settebelloと言って、もっとも強いカードです。settebelloはイタリアの超特急列車の名前に使われています。)また⑤7を4枚ともとっていればまた1点です。(7もしくは6を一番多く取っている人が1点というルールもある)。こうして得点を数え、それを記録し、誰かが12点を取ったらその回の勝負は終わりです。一回のゲームで取れる点数は多くて4~5点なので、あまり細かい数字は出て来ません。また、ゲームの最後で誰もscopa出来ないで残ったカードは、最後にscopaをした人が貰えます。もしそのゲームで誰もscopaしなかったら、最後に残ったカードは誰のものにもなりません。取り敢えず、上の①~⑤の得点方法でやってみて下さい。トランプでも遊べます。尚、同じ様なカードを使った遊びにtaroccoというのがあるが、これはタロット遊びと称される。tarotは占いに使うカードで、タロット占いという名前で知られている。占いが先かカード遊びが先か分からないが、このカードを使った遊びは15~6世紀にイタリアで始まったとの説が有力だ。tarotはそのカードの中にtrionfo(勝利)というカードがあって、それがtarotに進化したらしい。また、トランプ(trump)は「切り札」の意味で、日本ではこれを取って、トランプと呼ぶが、基はtrionfo(勝利)から派生したものではないだろうか。カードは、その起源どこにおくのは明確には分かっていないようだが、carteのDenariの絵は、麻雀のピンズにそっくりである。従い元祖は中国かも知れない。日本の花札はポルトガルから伝わったカルタが起源らしいので、世界中のカードゲームはやはりなにか関連しているようだ。いずれにしろ、トランプはイタリアのカードが基となっており、トランプゲームの原種だと思えば、少しやってみたくなりませんか。

141.asso(アッソ):carteから出てきた言葉で、エースつまり、1の事を指す。第一人者、名人、達人という意味がある。essere un asso di~は、~の第一人者(名人)であるという意味になる。また、大体どんなゲームでも2はあまり重要ではない。色々なゲームの変型で2がエースよりも強いとしたルールなどもありますが、基本的には2は最も弱いとされます。Briscolaというゲームは、scopaと同じ様にポピュラーなカードゲームですが、valer come il due di briscola は、「何の役にも立たない」、「ものの数でない」という意味です。ただ、3はこのbriscolaというゲームでは、強いカードとされています。従い、asso di briscola, tredicoppe, settebelloなどは何か良いもの、強いものを指す時に使われる言葉です。私の家の近くには、Settebelloというイタリアンレストランがありますがね。尚、一般のトランプの事はイタリア語では、carte francesiと言います。 似ている単語にaccaがあります。accaとはHのことです。Hはイタリア語では発音されないため、un'accaと言えば何もないの意味。例えば、Quello non vale un'acca.それは何の価値もない。Non capisco un’acca. 何のことやらさっぱりわからない、と言う意味です。

142.moro〈モーロ):イタリアの代表的なデザートのひとつに、frutti di bosco がある。森の果実という名前だが、これは通常ベリーの盛り合わせで、アイスをつけるとかなりおいしい。frutti di boscoは97で成分等を書いているので確認してください。さて、成分の中のmore〈ブラックベリー)は単数をmoraというが、mora もしくはmoroには、黒い人、褐色の人と言う意味がある。イタリアのサッカーチームにCagliari(カリアリ)というのがあるが、これはSardegnaのチームで、呼び名を Quattro moriという。サルデニアの旗は、このQuattro Moriという旗で、4人の黒人が描かれており、それを赤の十字が分断している形だ。moroというのは、もともとムーア人を表すとある、がムーア人とは、サラセン帝国のイスラム教徒を指すとか、アフリカのモーリタニア人を指すとか、諸説があり時代とともに支配民族の違いからそのものが変わって行ったようだ。実は、フランス領だがサルデニア島の北側にある、コルシカ島(ナポレオンの出生地として有名)の旗も、同じ黒人が描かれているが、こちらは1人だけである。あるイタリア人の話では、12世紀ころに、サルデニアを侵略してきた肌の黒い人種を彼らが打ち破った為に、勝利の成果として4人の黒人を旗印にしたという説を唱えてくれたが、どうも自国の旗に異人種を描くのは納得できない。むしろ、イスラム教徒がスペインを支配していた時期にサルデニアはその支配下にあったので、イスラム教徒自身の旗をサルデニアの国旗(サルデニア王国)にしたのではないかと思う。ところで、このmoroの意味だが、黒いとか黒人とかの意味だろうと予想したのだが、広義の解釈では髪や肌の色が薄い色(髪なら金髪や薄い茶色)でない人はmoroだという。目が青く、髪はブラウンだとmoroだとも言えるそうだ。そうすると、イタリア人の原種とでも言うべき、髪も目も黒い人は、肌は白か褐色でもmoroとなる。アジア人種は、皆一様に黒い目、髪(多少ブランがかっても金髪はいない)でmoroに違いないが、黒い肌の人種とはそれほど区別していなかったことになる。極端に言えば、白か黒か、金髪か黒か、の区分けしかなかったのだろうか。もしそうなら、サルデニアの旗の黒い人は、サルデニア島民の絵であってもおかしくはない。ところで、ミラノのSforzesco城のそばには、Quattro Moriというレストランがあるが、これは間違いなくサルデニア料理だ。

143.diavolo(デイアポロ):前回に続いてサッカーチームの愛称を述べたい。ミラノのチームは、Il Milanと L'Inter の2チームが有名だが、それぞれ愛称を Diavolo と Biscione(ビショーネ)という。愛称は他にもあって、前者はRossonero(ロッソネーロ)、後者はNerazzurro(ネーラッズーロ)というが、これはそれぞれのユニフォームの色を表しているだけで、あまり面白くはない。Diavoloは悪魔の意味である。これは、創設当初1900年代初期にIl Milanがとても強く、その戦い方が悪魔のようで、Diavolo Rossoneriと呼ばれたことに由来する。diavoloは会話の中で使う場合は、あまり上品な言葉ではない。 Va' al diavolo!などは、「あっちへ行け、消えろ!」の意味。Che diavolo~? は「おやまあ、一体~を」という表現で使う。 一方、Biscioneは大蛇のことで、これはミラノを支配していた貴族Visconti家の紋章に由来する。従い、もともとはL'Interがいわば上中流階級に支持され、Il Milanは労働者階級に支持されていたようである。今はそんな区分けはないようだが。尚、それぞれのファンにも愛称がある。Il Milanのファン(tifosi)は、Milanista(ミラニスタ)、L'InterはInterista(インテリスタ)と呼ぶ。これに比べると日本は大人しいですね。サッカーもチーム名は浦和、愛称はレッズ、ファンは浦和ファンくらいですし、野球でもチーム名:読売〈巨人)、愛称:ジャイアンツ、巨人ファンじゃ、面白くも何ともないか。チーム名:阪神、愛称:トラ、ファン:トラキチ、なら少しは面白いかな。

144.curare:「世話をする」という意味である。名詞は、curaで、世話、心遣い、治療などと訳される。動詞は英語のtake care of に相当する。Si curi!といえば、「お大事に!」という意味だ。ここで、curareの説明をするのではないが、日本語の4大訳せない言葉を、何とか訳せないか考えてみたい。その4言葉とは(私の分類ですが)、①「いつもお世話になっております」または「毎度ありがとうございます」のたぐい。②「よろしくお願いします」または「お願いします」③「お疲れ様」または「ご苦労様」④「お邪魔しました」または「失礼しました(お別れの時の)」である。これらの言葉は、イタリア語若しくは英語では使わないから、言わなくていいという事になっている。言葉は文化だからその言葉を話す時にはその文化に合わせるというのも一つの考えだろう。しかし、一方日本語はこのような表現文化を持っており、これを使わないとなんとなくすっきりしないという人もいることだろう。1970年代に勤務していた会社の偉い人が中国へ出かけて、相手の偉い人に対して、「いつも当社の北京事務所や担当員がお世話になっており有難うございます。云々」と社交辞令を長々と述べたところ、通訳した駐在員はひとこと「謝々」で終わったと話題になったことがあった。実は私も同じ経験があって、イタリアからの来賓に対して通訳をする機会があり、お偉いさんにこの種の社交辞令をまず述べられた。ただ、このお偉いさんは良く分かった人で、一応立場上長めに言ったが、訳せないだろうから、「有難う」だけで良いよ。と言ってくれたものだ。そういうやり取りが相手にも伝わって、大笑いになり、最初から大変砕けた雰囲気になった。このお偉いさんはそういう雰囲気作りが大変うまかった。ただ最近、英語ではこういう事は言わないとか、イタリア語ではこう言われたらこう答えるのが決まりだというような事に対して、多少、いや大変疑問をもちつつある。勿論、それは挨拶言葉のことではない。挨拶言葉は、それでもいいだろう。日本語ではいちいち「元気?」「今日はどう?」などと聞かないが、イタリア語は「Come stai?」と会うたびに聞く。面倒くさいと思っても、これは挨拶言葉だと思えばいいだろう。日本語の「こんにちわ」だって、何の意味もない言葉にすぎないのだ。問題だと思うのは、日常会話表現である。日本語は、基本的に控えめ、遠まわし、遠慮がち、思わせぶり、謙譲を言葉の中に含めるのに対し、外国語(特に米語)は、論理的、明解、自己主張を主とする。色々ご意見はあるかとは思うが、論理と自己主張はアメリカ式で、これに慣らされた人はこの手の論理を主張するが、イタリア人を始めイギリスを含む欧州は、論理よりも人間関係に拘るような気がする。論理と人間関係は別に相対するものではないので、ここであまり核心的議論には触れない。ただ、アメリカ人は「論理的」という言葉に大変弱いのである。嘘と思うなら試してみたら良い。もうひとつは「公平な」という言葉である。自由と平等を建前にする国だが、自由には制限がつくので、自由が言葉として問題になることはない。平等もあまりない。勿論建前論は別だが。さて、話を戻すと、日本的な情緒をなんとか、イタリア語でも表したいのですが。一般的には、①はPiacere di revederLa. ②はSperiamo di avere degli affari insieme. ③Buona serata!(Buona giornata!) Si rilassi!(Si, riposi!) ④Grazie per l’ invito. Arrivderci! などが通訳がとっさに使う表現となるでしょうね。あなたならどう訳しますか?

145.Papavero(パパーヴェロ):芥子(ケシ)のことである。ただ、ここでお話したいのは、papavero selvatico(野生の芥子=ひなげし)のこと。イタリアでは一般にpapaveroと呼ぶ。この花は欧州原産だが、日本でも多くみられる。日本では普通ポピーと呼ばれ、野生でも淡い色のピンクやオレンジなどがあちこちで見られるものである。しかし、欧州で見られるような真っ赤な花の群生は、あまり見たことがない。夏になると、イタリアの田舎の道路脇や、線路沿いにこの真っ赤な花が咲く。列車に乗っていて眺めていても、赤色があまりにも鮮やかなので、ずっと続けて見ていても私は飽きなかった。芥子には色々な種類があり、Papavero=芥子=opium(英語)は勿論、日本では輸入も栽培も禁止されている。papaは元々ケルト語(ギリシア語)で、赤ん坊の事を言い、赤ん坊を眠らせるのに、この花を使ったらしい。Popyは恐らくこのPapaから英語になったものだと思われるが、この花は各国で昔から大切にされている。イギリスでは、第一次大戦の戦没者を弔う花とされている。フランスでは、三色旗の色の中の赤は、ひなげしの赤色を象徴している。フランスでは、ひなげしのことを「コクリコ」という。与謝野晶子の詩に、「ああ皐月 仏蘭西の野は火の色す 君もコクリコわれもコクリコ」とありますが、このコクリコは真っ赤なひなげしの事で、お互いの思いが「燃えている」という意味じゃないかと思う。また、スペインでは、ひなげしを「アマポーラ」という。この名前の歌をご存知でしょうか?とても甘い歌で、大分昔に日本でも大ヒットしました。ナナ・ムスクーリというギリシア出身の歌手の名前を覚えたのもこの歌のお陰。また、この歌はオペラの歌手にも愛されており、ガーラコンサートのアンコール曲としても良く歌われます。そして、最後に中国では、「虞美人草」と呼ばれます。名前の由来は、項羽が歌った詩でも有名であるが、夏目漱石がこの名の小説を書いたことでも日本では有名ですね。これだけ、世界で愛されている花はあまりありません。私も最初これをイタリアの田園地帯で見た時には、その綺麗さに驚き、わざわざ写真を取る為に、良いスポットを探しに出かけたほどです。5月以降にイタリアへ行く人は是非Papaveroを探してみて下さい。尚、papaveroは「偉い人」という意味もあります(この場合、papavero altoとも言う)。また、車窓からの風景では、同じ時期に辺り一面が黄色になる風景もあります。こちらは、girasole(ひまわり)です。そして、ひまわりが終わるころになると、mais(とうもろこし)で一杯になります。何故イタリアはとうもろこしの栽培が多いのか聞いたところ、植えっぱなしで殆ど手間がかからないからだそうです。つまり、夏休みを完全に休暇にするには、植えっぱなしで済むものが最も便利だから。世話もせず、間引きもしないので、実は小さいです。とうもろこしの用途は、ほとんどがバイオ燃料用で、イタリアではバイオ燃料は生産していない為、殆どがブラジルへの輸出用だそうです。polentaという有名なとうもろこし料理があります。私はきらいではないですが、イタリアの人はあまり好きではなさそうです。理由は、戦争中、戦後食料が不足した時に嫌というほど食べたからとか。なるほど、日本にもそんな時代がありましたね。

146.baccala`(バッカラ):最後にアクセントがある。これは、干だら(干したら)のことを言います。これは、venezia語だという説もあるが、イタリア全体でこの言葉を使う。この言葉の語源は分からない。初めてこれを食したのは、イタリアのPiemonte州の山の中だった。何故山の中で鱈が出てくるのか、最初は驚いたが実は、意外とbaccala`がイタリアで食べられているというのを知ったのは後になってから。名前がユニークなので覚えた。鱈は英語でcodといい、干したらは、dried codである。Norwayで生産が盛んで、それはバイキング時代から伝えられている伝統的な保存食かと思っていたが、実際には作られ始めたのは500年くらい前からとの説がある。生産国は、ノールウエイ、アイスランド、カナダ、ポルトガルなどである。イタリア語辞書で「たら」を引くと、merluzzoという名前が出てくる。baccala`はmerluzzoの一種で、merluzzo bianco(白たら)のことを言うとある。サザエさんに出てくるタラちゃんは、こちらの方だろう。確かに、merluzzoという魚もイタリアで食したことはあるが、違いは良く分からない。普通は、baccala`は、「干だら」の意味で使われいるようだ。尚、baccala‘には、愚図、愚鈍な人という意味もある。stupidoほど強い意味ではない。あまり良い意味ではないが、なんとなく日本語と似ている単語をここで見つけました。

147.Gobba(ゴッバ):猫背の女性(せむし女)この言葉は、Juventus(サッカーチーム)の愛称です。勿論男性の場合は、gobboと言います。Juventusは、他にも愛称があって、madama(貴婦人)や la vecchia signora(老婦人)とも呼ばれます。またユニフォームの色からは、Bianconeroがその愛称です。何故こんなに愛称が多いのか、それはJuventusがイタリアで最も愛されているチームだからです。いま日本では、日本人が属するチーム、L'Interやそれとミラノダービーを争うIl Milanが有名ですし、勿論この2チームもとても人気のあるチームですが、やはり最も伝統と強さと人気を兼ね備えているのはJuventusなのです。言わば、日本の「巨人」に当たるのがJuventusだと言えるでしょう。Juveは、Fiatの傘下にあり、Fiatの前会長のGiovanni Agnelliが、Juveを強くしたとも言えるでしょう。さて、Giovannni Agnelliは通称Gianni Agnelli またはL'Avvocatoと呼ばれていました。イタリアのGDPの3%とも4%とも1人で稼いでいるとも言われた、大実業家であり大富豪です。イタリアは1990年頃ですが、株式市場の40%を2社で占めていると言われている時期がありました。25%がFiatで残りの15%はGENERALIという保険・不動産会社です。株式市場の時価の25%を占める会社のオーナーですから、相当な力を持っていたことが想像出来ますね。今は、前首相のBerlusconi氏がイタリア屈指の大富豪と言われていますが、恐らくAgnelli氏とはまだ大分差があるのではないでしょうか。Agnelli氏は終身上院議員になりましたが、政治家としての活動は殆どなく、しかし政治的な影響はとても持っている実業家でした。大変なおしゃれでも有名です。Romitiというコワモテの右腕がいて(確かにとても怖い顔をしています)、corruzione(汚職)などの罪は彼が被りましたから、Agnelli自身はそういう問題からはうまく逃げています。イタリアは日本以上に車のメーカーが多い国でしたが、Lancia, Alfa Romeo, Ferrari, などFiat以外の大手は殆ど全てFiatの傘下に下りました。イタリア人にとっては、イタリアを代表する車会社のproprietario(オーナー)として、人気があったのではないでしょうか。その証拠に、20年ほど前に「Jonny Lambs]というブランドを持つ衣服のメーカーと出会いました。このブランドが、Givanni Agnelliのパロディだとは、説明されるまで気づきませんでした.このブランドがまだあるかどうか分かりません。中高級のカジュアルウエアでしたが、実業家の名前をパロディにしてブランドにするのですから、大したものというのか驚きますね。Agnelliと何か関係があったのでしょうかね??。日本だったら、Felice Sottopino(松下幸之助)はいかがでしょうか。

148.raccomandazione:推薦、もしくは有力者の後押し(つまりコネ)イタリアは就職するにはコネが必要だと言われる。また何か重要な事を頼む時には、一体誰を(有力者)を知っているかが鍵になる。振り返って、日本はどうだ。まあ、たいして変わらない気もするが。1970年代前半のころ、知り合いが某大手広告会社にどうしても行きたがっていたが、コネがないことであきらめていた。当時田中角栄首相の時代だったが、彼がいうには首相の推薦状なんかは最低条件でそんなのは決め手にならないとさえ言っていた。どこまで本当かどうか知らないが、いずれにしろ現在でもコネが日本社会で全く関係ないとは言えないだろう。だから、イタリアのコネ社会を揶揄など出来たものではないが、このraccomandazioneはイタリアでは、病院への入院、銀行との取引、航空会社や劇場などのチケット入手では大変効くようだ。昔の事だが、中国では金など何の役にも立たないと、会社の先輩が言ってました。当時の彼の国では、金があっても買うものがないが、権力があれば国の金を思う存分使えると言っていた。確かに、権力があれば高級車に乗り、別荘を持ち、いつでも庶民の予約を反故にして飛行機に乗れた。勿論権力とのコネがある人もそうなのだが。どうやら今は金がものを言う世界になったようだ。さて、raccomandareは、raccomandazioneの動詞だが、この動詞は「推薦する」という意味以外に「~を要請する、願う」という意味がある。したがい、Ti raccomando di non dire nulla.(頼むから何も言うなよ)といういう使い方がある一方、raccomandarsiと再帰動詞の形で、Mi raccomando!と言えば、(お願です!)と使える。また、raccomandataは「書留郵便」のことである。

149.acciaio(アッチャイオ):鋼鉄(英語でsteel)の事を言う。イタリア語にはaccで始まる単語が多いが、これは名詞の動詞形や動詞ならcから始まる動詞の変化形が多い。例えば、accaderecadere(落ちる、倒れる)の変化形で、「起こる」「生じる」の意。accarezzare愛撫する、はcarezza愛撫の動詞、accasare 結婚させる、所帯を持たせるは、casaの動詞形である。アッチャという音の響きを面白いと思うので、どうしてもcocciaio(コッチャイオ)がないかと思う。これはある。coccioは陶器や瀬戸物の意味で、cocciaioは焼き物職人のことである。悪乗りして、soccioを探すと、あった!soccioとは、家畜類を預かって飼育する人だそうだ、soccida(ソッチダ)というのもある。意味は家畜の委託飼育のこと。まあ、覚えても意味はないかも知れない。第一 coccioなども辞書で引いて調べたものだが、こんなものをイタリア人に聞いても知らない。coccioをイタリア人に聞いたら、割れて使い物にならないようなものを指すそうだ。さて、acciaioに戻ると、この言葉を見ると Patto d'acciaio (伊独同盟 #75参照)を思い出す。当時イタリアは、「王国」でした。Vittorio Emmanuele3世の時代で、王室はFascisto政権とはうまくやって行こうとしていたらしい。しかし、ベルギー王室から王子Umberto2世に嫁いだMaria Jose del Belgioは、ナチスに反対していた経緯もあり、ファシスト政権には反対だったようです。Maria Joseは5月の女王として有名です。それは、Umberto3世が王位を継承してすぐに、国民投票により王政が廃止され、イタリア共和国になり、在位が殆ど5月だったから。国王、女王は国外追放となり帰国が許されたのはやっと1987年になってからでした。Maria Joseは写真で見る限りとても美しく、そして常に庶民側に立っていたということなどから、国民に人気があったようです。イタリアの前の戦争の話になると長くなるが、恐らく多くの人が勘違いしているのは、イタリアがどういう戦いをしたかということです。当時は侵略戦争の時代でしたから、当初はイタリアはドイツと同盟を結び、エチオピアまでも奪おうとしましたが、短期的な勝利を除いて、植民地獲得には殆ど成功していません。そして、国内に反ファシスト勢力が台頭した後は、イタリア国内では対ファシスト、対ナチスとの戦いが中心でした。ミラノは連合軍の大爆撃を受け、がれきの山になりましたが、これはアメリカ軍がイタリアに進駐しているナチス軍を叩こうとした為です。イタリア国内での戦いは、連合軍がシチリアに上陸した後北上を始め、それに抗戦するファシストとナチス軍との戦いで、連合軍には多くのパルチザンと呼ばれるイタリア人が加勢しました。実は、イタリアは太平洋戦争終結直前に日本に宣戦布告さえしているのです。戦争が終わった後、イタリアは連合軍に入れてくれと頼んだという逸話もありますが、本当かどうか分かりません。私がイタリアにいる間に、日本人駐在員のご婦人方が、イタリアの老人ホームの慰問で、クリスマスの時期に、ベートベン第九の歌をドイツ語で歌ったところ、とても不評だったと聞きました。イタリア人はドイツがあまり好きじゃなかったし、戦争では多くのイタリア人がドイツ人に殺されたということを忘れていたんですね。日独伊3国軍事同盟はいろいろ複雑な経緯を辿っています。

150.ricetta(リチェッタ):処方箋のことをいう。また、料理のレシピのこともこういう。英語ではrecipeまたはprescriptionという。イタリア語でもprescrizioneという言葉があるが、こちらは処方箋の事で、レシピの意味はない。prescrizioneには「時効」の意味がある。prescrizioneの動詞は、prescrivereで、この語はpre+scrivereで予め書くという事だが、そうダイレクトな意味はなく、「処方する」、「規定する」、「そして時効によって無効とする」という意味がある。予め書くから、「規定する」はわかるが、それが処方するとか、時効にするとか意味が広がって行くのは面白い。scrivereは「書く」だが、iscrivereと「i」を前にひとつつけただけで、書くは書くでも、「登録する、登記する」の意味になる。学校への入学も、この言葉iscrizioneを使うことになる。英語はこの場合、registerという単語を使う。イタリア語でregistrareと言えば、「記録する、登記する」という意味があるが、また「録音する」という意味がある。但し、英語のregisterには録音するという意味はない。英語で録音するは、record(recording)という。私の学校で、英語とイタリア語のネイティブ音声を録音しているが、間違ってアメリカ人にイタリア語のregistrazioneからregistrationと言ってしまうと、何をいっているのかと変な顔をされる。一方、イタリア語でricordareは、「思い出させる、覚えておく」と言う意味でこちらに、録音するという意味はない。ちなみに英語では、rememberがイタリア語のricordareに相当するようだが、recallという言葉もある。色々辿って行くと、言葉が変わっている事を感じる。#21で述べている、championもそうだ。イタリア語では、campioneと言うと、これは「チャンピオン」の意味と「サンプル」の意味があるが、勿論英語のchampionにはサンプルの意味はない。話が堂々巡りをしているようだ。元に戻して、犬を飼っているとヒラリヤという病気だか薬の名前だか忘れたが、毎年飲ませねばならない。大変高価な薬だし、イタリアでは獣医のprescrizioneがないと、この薬を手に入れることが出来ない。しかし、獣医にprescrizioneを貰う為に、犬を診せに連れていくとそれだけで大変な出費になる。そこで薬屋に相談に行ったら、コピーで良いと言う。結局3年ほど一回目のコピーで済ませたが、そんなことは本当は駄目ですよね?ようく分からないが、何れにしろ薬局では、コピーで売ってくれたのは確かだ。いずれにしろ、もうprescrizione(時効)だろうが。

151.arcobaleno(アルコバレーノ):何となく響きが良く聞こえるのは、この単語を最初に聞いたのは、70年代にヒットしたカンツォーネ"I giorni dell'Arcobaleno"の歌からだったから、だろうか。Nicola di Bariのこの歌はとても甘い歌で、arcobaleno=「虹」が幸せの象徴みたいに聞こえたのは、音楽のなぜるわざか?Viva la musica! arcoは弓、balenoは稲妻のこと。英語ではrainbowで、こちらは雨+弓である。またラルカンシェルという歌手グループがいるが、これはフランス語の虹(L'arc en ciel)のことで、意味は 空の弓である。イタリア語arcoは弓以外にも、アーチ型の建造物をも言い、arco trionfaleといえば凱旋門のこと。フランス語でL'Arc de Triompheと言えば、パリにある「凱旋門」のことだ。英語には、門のことはgateと言う言い方もあるが、凱旋門のようなアーチ式の門の場合は、archを使う。ところで、Nicola di Bariは、1960年代後半から70年代にかけてイタリアで大変人気のあった歌手で、この間に2度サンレモ音楽祭で優勝している。そのうちの一つが、以上のarcobalenoの曲だが、残念ながら今の若いイタリア人は殆ど知らない。なんでこんな良い曲を?と思ったが、考えてみれば、日本でも辺見エミリーのお母さんや、宇多田ヒカルのお母さんの曲を今の若い人に知ってるかと聞くみたいなものだと思って納得した。昭和は遠くなりにけり。

152.bar(バール):日本語でバーというと、英語から来たBarを通常連想し、お酒を飲む場所となる。バーというと、昔は大体一杯200円か300円でハイボールや水割りが飲めて、1000円か2000円くらいで勘定が済むところを言い勿論ホステスなどはいない。ホステスやホストがいて、一回行くと一万円くらい取られるところは、クラブといい、高いところはキリがないらしい(行ったことがないので分からない)。一方、居酒屋と言えば、日本酒か焼酎をのませるところで、イメージとしてはバーよりももっと、云わば、汚い。というのが、40年前のイメージである。今は行かないので知らない。以上のイメージはあくまで、40年前のことで、且つ個人の感想です。さて、barというのは、勿論英語であるが、例えば石鹸を数えるのに a bar of soapという。なぜ、barというのかを説明するのは、若い人には大変だが、石鹸はもともと長い四角い棒の形にしたものを切ったもので、洗濯石鹸はつい最近まで角が丸くない、四角い形をしていた。今でもあるはずだが、若い人は洗濯石鹸は粉しか知らないというので、説明が難しい。つまり、長い四角い板の事をBarというのだ。また、英語のbarには「法定」の意味がある。法廷小説を読むと、良くbarが出てくるが、この場合は勿論「法廷」とか「弁護士」の意味で使われる。何故、「法廷」をbarというかというと、被告席と裁判官席を分ける手すりの事をそう呼んだかららしい。barというのは、従いbarの客とバーテンダーを仕切るカウンター(木の板)とか、店内のその他の仕切りとか、または、外で馬をつないだ柵のことから、とか諸説がある。と、ここまで英語の説明でしたが、このコラムはここからイタリア語に入ります。イタリアでのBARは、勿論お酒だけを飲むところではない。と言うより、むしろコーヒーを飲むところですから、英語のbarのイメージはない。ここは、大人も子供も入れる。そして、イタリア語では、barのことは、sbarraという。ということは、barは何れにしろ、外来語であって、それから数えると、イタリアでBarと言う名前の店が出来始めたのはやっと19世紀ころのようである。sbarraは、棒、柵、格子などのことを言い、これらは殆ど英語のBarの意味と同じだが、店の名前だけは英語を取っている。それは、恐らく似たような店が海外に(アメリカ)にあって、それを見て名前を考えからだろうと思う。どうして、Sbarraと呼ばなかったのか? 日本でのコンビニはアメリカのconvenience storeから取って、日本人得意の省略形にしたのだろうが、これを「便利店」とか「便利ショップ」とか名付けたら、今ほどの発展はなかったのでは?かどうかは、断定は出来ませんがね。いずれにしろ、イタリアにおいても、英語のBarの方が、粋に感じたんではないでしょうか。また、essere dietro di sbarreと言えば、格子の中にいると言う事で、この格子は鉄格子でつまり、服役中であると言う意味。もうひとつ、イギリスでは、barはワインバーのことで、他の酒を飲む場所はpubと呼ぶ。(らしい。酒飲みのかたは、入るときにお間違いがないように!)

153.te`(テ):アクセントがある方で、紅茶の意味だ。アクセントがない方は「te=君(目的格)」という意味で区別される。それぐらい知っているよといわれそうなので、少し格調を上げます。このte`から日本人の語学学習について述べる。どうです、少し格調が上がったでしょう、いや、単なる大風呂敷かも。「テ」はもともと中国の福建省地区の「茶」の発音です。これが、ヨーロッパに渡ってte‘となり、その後英語のteaとなったという説があります。一方「チャ」は、広東省での発音で、これが、ロシアやトルコでは「チャイ」という名前になった。勿論日本では「チャ」である。ちなみに、イギリスではteaは「ティー」というよりも「チー」に近い発音である。チャイの影響かな?それは飛躍過ぎでしょうね。 #67で、日本がジャパンと呼ばれるのは、中国語の「日本」の発音からだと書いた。それも中国からヨーロッパに渡り、英語になったと言う説。一方Chinaは、「秦」と言う国の名前からとの説が有力である。「秦」はピンインではqinと書く。支那と書くのはchinaから来た当て字で、こちらはピンインではzhinaと書き、文字ではChinaに近いが音は全く異なってしまう。qin(チン)がcina(チーナ)になり、China(チャイナ)なったと考えるのが自然であろう。ここで、仮説を上げます。「英語を勉強するなら、中国語とイタリア語から入った方が良い。何故なら英語と日本語は殆ど共通点がない、とても遠い言語だからである。」という仮説である。つまり、150年以上前に戻ると、アメリカが黒船でやってくるまで、日本は文化を全て中国またはヨーロッパを通じて吸収していた。まず、日本語と中国語の共通点を上げる。①時制がない。中国語は現在も、過去も、未来も同じだ。了を付けて、過去を表すが、別に付けなくても良い。日本語に未来がないのは、#124で述べた。~だろうというは、文法では現在形である。未来形というのは、形が変わらねばならない。イタリア語では、andareはvadoが一人称単数の現在形、andro`が未来形である。英語は形は変わらないが、willという助動詞を付ける。助動詞を付けた場合、そのあとの動詞は現在形ではなく、動詞の原型若しくは不定詞と呼ばれる。日本語には過去形があると言うが、これも「~った」「した」「た」を付けるだけだから、形とは言えない。②格がない。中国語には格がない。格とは、主格、目的格、所有格のこと。我愛?(ここに「あなた」という意味のniもしくはninという漢字が入りますが、このテキストで表現出来ないようなので、その漢字があると思って読んで頂きたい)。?好?。他是?父親。のように「あなたを(愛しています)」「あなたは(元気ですか)」「彼は、あなたの(お父さんです)」全て同じだ。日本語は、「は、を、の」と言う助詞を付けて格変化をするが、名詞自体には格がない。ちなみに中国語で「~の」を表す時に「的」を使うが、この的という字が、乃になり「の」になった。日本語と中国語はこのように文字以外にも言語的に共通点が多い。次に中国語とイタリア語の共通点を上げると、①構文が同じ ②2人称に尊称がある 中国語「?」(nin)と「?」(ni) イタリア語「Lei]と「tu」。これは、日本語も同じ。次にイタリア語と英語の共通点は、①時制がある ②格がある ③構文が同じ など。つまり、日本語と中国語は、時制/人称格/文字/音などで共通で、中国語は英語と構文が同じであるが、日本語と英語の共通点は、今あげた物の中では一つもない。従い、日本人が英語を学ぶには、日本語、中国語、イタリア語、英語というラインで学ぶと理解しやすくなる。言うまでもなく、日本語は中国語から、英語はラテン語(今のイタリア語)から派生したものである。この話しは長くなるので、項を改める。

154.ipotesi(イポーテジ):イタリアに仕事で赴任した時に、彼らが良くこの言葉を使う事に気付いた。これは、「仮定」と言う意味である。「こう仮定してみよう」などと言うが、意味は「「これはどうだろう」ということだ。日本語では仮定などという言葉はあまり使わないが、これはイタリア語的な表現の一つだろう。またretorico「修辞的な」など日本語にすると難しい言葉も「美辞麗句の」「表現がかっこいい(だけ)」の意味で使われる。さて、前項でipotesiを上げた。言いかえれば、日本人は、中国語、イタリア語、英語と日本語の4つのライン上で語学を学んだほうが良いというもの。中国語、ラテン語、そして英語は夫々言語圏として大きな版図を占めた事があるか、未だに占めている。日本語は中国から伝わった言語に、日本独特のひらがなを加え、作られていった。しかし、儒教の教えを主とした教理が根強く、明治維新まで漢語の学習は怠らなかった。江戸時代の鎖国の結果、ヨーロッパはオランダからのみ文化の流入があり、オランダ語の学習も進んだが、当時訳された医学書などの文献は、オランダ語から漢文に訳されたのだ。日本語は中国語と、時制、格、そして勿論文字そして音が似ているが、構文が異なるので、漢文にする方が楽だったのだろう。中国語と漢文は大分異なるらしいが、構文については基本は変わらないので、中国語が出来なくとも漢文が出来れば、単語を調べてオランダ語の本は読めた。幕末の知識人みな漢語が出来たので、明治になってこれからは漢文ではなく英語だという時代になっても、単語さえ分かれば本は読めた。福沢諭吉などが海外へ行って本を買いあさり、急いで日英対訳の辞書を作ったのも、単語さえあてはめていけば文章が読めたからである。恐らく発音は相当ひどかっただろうし、聞き取りも出来なかっただろう。が、自分の意思を伝えることはしたのではないだろうか。言語の基本は、相手に言いたいことを伝えることなのであるから、これが一番重要なのだ。翻って、今日日本では漢文の学習は殆どない、そして突然日本語から英語である。この2者は4つの言語ラインの両極にあるのだ。しかも学習方法が英語→日本語という方向性が主流(大多数)である。この問題は自分の意見が言えないことである。さて、話はまだ続く。

155.oriente(オリエンテ):東洋の事を言う。反対に西洋のことはoccidenteという。これは、ヨーロッパ的な考えである。何故なら、アメリカの西は日本であり、アジアであるがこれを西洋とは言わない。Australiaは西洋か東洋か?Australiaは欧州からの位置は東洋だが、orienteとは言わないそうである。orienteとは、ラテン語の「生まれる」との意味があり太陽が生まれる方角を指した。orienteには方角の意味もある。orientazioneには方向付けをする、指針を定めると言う意味がある。オリエンテーションのことである。一方occidenteは、ギリシア語の日が沈むを意味する。ラテン語が、主流だった古代ローマでも、学術的にはギリシア語が一目置かれていたので、現イタリア語の元は、ラテン語だったり、ギリシア語だったりする。漢字では、東洋は東の海の意味になるが、中国語では、東洋は日本の事もいう。東洋は東亜、西洋は西亜という。亜はアジアのことだから、中国を中心とした中華思想では、東洋西洋は、アジアの東、アジアの西ということなのか。韓国のことを、Koreaというが、イタリア語ではCoreaである。これは、高麗の中国語読みKaoliから、そうなったそうだが、そうするとlとrが合わない。韓国の人は日本人と同じように、LとRの区別が付かないと聞いたことがある。第一、李さんはLeeと書いても、「イ」と読むぐらいだから、恐らくL音がないのではないだろうか。それであれば、Kaoliと誰かが発音しても、Kaoriになるはずだから、それがCoreaになっても不思議ではない。中国の人は、日本語のPとBの区別が付かない。日本語のババさんとパパさんの区別が分からない。それは、中国語にP音とB音の区別がないからではない。私が中国語を習った時は、Pは口の前に紙切れを縦にして、その紙切れが前に吹き飛ぶ音がPであると学習させられた。つまり、BとPでは、吐き出す空気が大分違う。イタリア人やアメリカ人は、日本人の名前で、例えば大野さんと小野さんの区別が付かない。OhnoもOnoも同じにしか聞こえないという。また、私の個人的な経験だが、南米の人がVとBの区別が大変難しいと言っていた経験がある。話が色々飛んでしまったが、要は、日本人はLとRや、BとVの区別が付かずに、色々失敗もするが、そんなことは世界の誰もが他の言語に対してはひとつかふたつはある事なので、気にしなくてもいい。中国語は、漢字一つが夫々一音節という世界に類を見ない言語だ。日本語になったら、複数音節になった。例えば、東、中国語は、dongと一音節、日本語はhi-ga-shiで3音節だ。しかし、中国語が子音で終わるのを、日本語は母音で終わるように変えた。そうすると、ぴょんと中国を飛び越えて、イタリア語と一つ共通点が出来た。母音で終わるから発音には共通点が多い。一方、イタリア語から派生した英語は、逆に子音で終わる。日本語と中国語は、文字、音、時制、格、単語で共通点がある。従い、漢語を勉強した戦前の人は英語が出来た。漢語を知っていれば、異なるのは単語と発音が主だから。今は漢語をやらないので、全てが異なる英語へ一足飛びで学ぼうとするから落伍者がたくさん出来る。出来る人は一足飛びでも問題はない。ただ繰り返すが、漢語は今の中国語とは違う。漢語学習のメリットは構文の理解だということ。なお、韓国の人にLとRのことを聞いたら、もともとL音はなかったが、以前は日本人と同じようにLとRをかなりごちゃ混ぜに使っていたとのことだ。

156.dialetto : この欄では、時折語学学習方法について触れる。恐れ多いと思いながらも自分なりに考えてみる。とくに、語学が苦手な人へ何か方法がないか考える。語学ができる人は、そして私よりもできる人はゴマンとおり、そういう人のことは考える必要がない。テーマは常に初学者と、何年も勉強しているができない人である。文法重視教育の弊害を唱えて会話重視に変えたら、余計レベルが下がった話は沢山ある。日本語と英語は、これまで述べてきたように全て異なる言語同士なので、難しい。聞き流しで覚えられるほど単純なら、みなすぐにペラペラだろう。私はほぼ1年間OperaのRigolettoを通勤途上に聞いて過ごした。お蔭で全ての曲を覚え、このオペラは益々好きになったが、聞き流した部分の歌詞を覚えたことはない。しかし、Buffone!やMaledetto!などは、このセリフで覚えた。今でも40年前にくちずさんだ英語の歌を、覚えていることに驚くことがあるが、それも聞き流しで覚えたのではない。歌詞を当時覚えたのだ。当時ただ聞いていた英語の歌は、今聞いても歌詞は出てこない。聞き流しとはそんなものだ。イタリアの人が日本語を覚えるときに、時制や格変化をどうするのか聞いた。まとめて学習するそうだ。イタリア語を学習するときは、現在形、近過去形、未来形、半過去の順番で日本人は学習するが、彼らはそういう細かい区別がない日本語は、一緒に学ぶ。格変化も同じ。イタリア語や英語の小学校の教科書を見れば、時制や格変化を段階を追っては書いてない。小学一年生から、条件法が出てくる。だからと言って、日本人が同じ学び方をして理解できるのだろうか? 漢文は構文は違うが、文字が同じだから理解し易かった。もし構文を理解していたら、あとは、単語と発音の学習で済むのだ(多少細かい点は飛ばしていることをご了解ください)。構文の学習に何年もかけるから、単語が追い付かない。小学生に構文を教えても理解しないから、小学生には単語を2000教えたらよい。なぜ、ヨーロッパ人は英語の習得が速いのか?構文が共通だから、単語を覚えればいいから。しかも単語も7割は共通だ。愛はイタリア語ではamoreだが、英語のloveはドイツ語のliebeから取った。つまり、いずれにせよ欧州後の言語のどこかに共通点はある。いくらやってもネイティブにはなれない。第一、英語はもう敵性語ではなく、世界語となりつつある。なら、発音はネイティブに合わせる必要はない。日本の発音で国際語を話すだけだ。関西弁でも九州弁でも東京人には100%わからないかもしれないが、通じる。英語の日本方言、、それがdialettoである。なお、前回東西という言い方を述べたが、北南にもイタリア語独特の言い方がある。「北の」は、settentrionale 「南の」は、meridionaleという。これらの言い方も覚えておれば役に立つ。普通に使われますから。

157.Buco nero:黒い穴、つまりブラックホールのこと。宇宙(spazio)にはBuco neroが沢山あるらしい。しかも、超巨大なものになると、想像を絶する大きさだということだ。それは、何億光年かの先にあるらしい。何億光年という距離はピンとこないが、それが光が届く時間で測った距離だということは習った。であれば、何億光年先の天体の話は、何億年前の話である。つまり天体をみて、何億もの星が見えるが、殆ど過去を見ているのであって、今それがそこにあるかどうかは、分からないということだ。1万光年先の星がまだそこにあるのか、100万光年先の銀河がまだそのままあるのか、1億光年先の巨大ブラックホールは今はどうなっているのか、分かるのだろうか。もし光よりも速い速度で膨張していたら、地球人が気づく前に、アッという間もなく、地球を飲み込んでしまうことになる。光より速ければ見えないので我々は気づくこともない。うむ、なるほど。宇宙で宇宙を観測しているハッブル望遠鏡が、1光年先くらいから、1年かかって映像を送ってきても、映像が届くよりも膨張が速いと、やはり知らない間に飲み込まれることになる。うむ、そうなのか。Buco neroとは、女性の財布のことも言う。いくら中にお金を入れても知らない間になくなるから。Buco neroは、「知らない間になくなる」というのが、キーワードのようだ。ちなみに、avere le mani bucate という熟語は、浪費癖があるという意味。また、ビッグバンは、イタリア語でなんというかというと、これは、そのままBIG BANGという。しかし、昔から夜空にある星の数がどれくらいなのか、気になっていたが、これは3次元(tre dimensioni)では説明できないということがなんとなくわかる。宇宙は4次元(quattro dimensioni)だというと、これで頭に描くことが出来るが、それとももっと高次元のものなのだろうか。科学者は5次元とか10次元とかいうが、なんのことやらさっぱり描くことができない。いずれにしろ、我々が住む世界は3次元だから、宇宙に時間を入れても4次元にはならないのかも知れない。もともと4次元という発想自体3次元に住んでいては分からない。ただ、宇宙は現在と過去を見ているのだとすると、これは面白い。いや、ETI(地球外知的生命体)がいるとしたら、彼らにとって、今の我々地球人は未来人である。なぜならもし今地球を眺めているとしたら、まだ恐竜しかいない地球を見ているかもしれないからである。つまり、考えようによっては未来も共存している。宇宙って、すごい!分からない!

158.Domenica: 日曜日である。カリブ海にドミニカ共和国があるが、あれは日曜日という意味なのか。おまけに首都がサントドミンゴである。Domingoはスペイン語で日曜日のことだ。ほとんと日曜日の国だ、ということではない。日本で、曜日のことを月・火・水・木・金・土・日と呼ぶのはいつからか?正式には、明治かららしいが、実際は平安時代ころから呼んでいたらしい。ただ、江戸時代には曜日はあまり使われなかったようだ。テレビのドラマをみても、確かにあまり曜日が出てこない。来週の金曜日の虎の刻に、云々とはあまり聞かない。日本に入ってきたのは、中国からだろうが、今中国では、月曜日を星期一、火曜日を星期二、のように番号で呼ぶ。英語から取ったと思う人もいるかも知れないが、英語は、Monday,Tuesday、Wednesdayと続いて、星とは関係がない。Mondayは、moonからだろう。しかし、火星はMars,水星はMercuryである。英語は、火曜日~土曜日は北欧やギリシア神話の神からとった。ここでイタリア語の登場。イタリア語が、日本語と近い。月曜日(lunedi=Luna=月)、火曜日(martedi =Marte=火星、または軍神マルス)、水曜日(mercoledi =Mercurio=水星またはマーキュリー(ヘルメス))、木曜日(giovedi=Giove=木星または天の神ジュピター)、金曜日(venderdi=Venere =金星または愛の神ヴィーナス)となる。土曜日はちょっとやっかいだ。イタリア語で土星は、Saturnoという。Sabato(土曜)とは、近いがSaだけだ。一方英語は、土星はSaturnで土曜日は、Saturdayだから、こちらは、殆どぴったしあう。しかし、イタリア語のSabatoは、ユダヤ教の安息日を意味する言葉Shabbatohから来ている。ユダヤ教ではしたがい、土曜日は働かない。イタリアが、現在の曜日を採用したのは、ローマ帝国がキリスト教を国教と定めた後の382年ころとされる。土曜日になぜ、ユダヤ教の安息日の名前を持ってきたのかはわからないが、当時すでに週休日の考えがあったのだろうか?というのは、素人の邪推である。カトリック教では、日曜日を安息日と定めた。従い、日曜日の名前を、Domineの日とした。Domineとはラテン語で「主」「神」の意味である。つまり、日曜日は神の日という意味である。そうすると、日曜日だけは、英語のSundayから取ったようなものだ。いや、土曜日もそうですね。月~金はカトリックに従い、土日はプロテスタントに従ったのでしょうか、日本の曜日は? 中国語では、日曜日のことは星期天、または星期日というから、どちらにも当てはまる。いずれにしろ、ドミニカ共和国は、日曜日の国ではないということが、これでわかる。はい。

159.ortensia(オルテンシャ):紫陽花のこと。ところで星の名前は発見者が自分の名前をつけることが出来るそうである。オーストラリアのLovejoyという人が発見した彗星は、太陽に飲み込まれるかと思ったところ、太陽の重力に打ち勝って再び軌道を回り始めたと話題になった。この彗星の名前はLovejoyで、このような苗字を持っている人の星名だと覚えやすくて良い。自分も早く見つけないとなくなってしまうと心配する必要はない。宇宙には数百億の銀河があるらしいので、星は無数である。インド仏教で呼ぶ3界とは、小世界(これが我々の住む宇宙で、我々の銀河だとすると)が1000集まって中世界、中世界が1000個集まって大世界というそうなので、大世界とは銀河10億分を言う。よくそんな昔に我々の住む宇宙が10億個もあると考えたものだが、実際はもっとあるそうだ。高杉晋作の都都逸に「三千世界のカラスを殺し、主と朝寝がしてみたい」なんてのがあるが、この3千世界は3界(つまり大世界=1000x1000x1000)を指すものだとしたら、これもとてつもなく大きいことを述べていることになる。江戸末期という時代は、そういう気概を持った人物が多かったのだろう。高杉は長州藩が幕府の攘夷令に従い関門海峡を通る外国船を砲撃し敗れた時、弱冠25歳で交渉役となり、「彦島をよこせ」というイギリス側の要求に一歩もひかず、「そんなことをいうなら、もう一度戦争をやろう」と言って、結局は何も譲歩しなかったという痛快な男である。辞世の句は「おもしろきこともなき世をおもしろく、すみなすものは心なりけり」である。こういう人の作に、カラスは宇宙にはいないよ、などというのはそれこそ野暮というものだろう。話は大分それたが、ortensiaというのは、もともと人の名前から取ったものだそうである。紫陽花の学名はHydrangeaといい、英語もこの名前を使う。しかしイタリアでは断然Ortensiaである。女性の名前だろうとイタリアでは関係ない。一方、シーボルトが日本の紫陽花の一種に自分の妻だか、愛人だかの名前をとって「Hydrangea-オタカ」と名前を付けたが、のちに牧野富太郎氏がそれを知って、個人の名前をつけたということで命名を非難し、いまは使われなくなったそうだ。イタリアと日本の差が出ていて面白いと思う。バラの名前などは、殆ど人の名前ばかしなんですけどね。また、紫陽花と書いて、アジサイと読むのもなんだか難しい。虞美人草はひなげしのことであると、145項で書いた。アジサイは「あじさい」でいいのではないか。そうすると漢字検定の問題が一つ減ることは間違いない。漢字の名前は、確かに情緒を感じるが、紫陽花は白居易がつけた名前で、本来は別の花であったらしい。であるなら、紫陽花にこだわる必要はないと思うが。

160.TESTO(テスト):testaが「頭」でtestoは「本文」つまり、textのことをいう。語尾がOかAで意味が全く変わる単語(男女の違いやほぼ同じ意味を表すものを除く)には他に、bancoとbanca、oroと oraなどがある。tavoloとtavolaは微妙に使い分けが行われるが(tavolaは食卓、または実際に食事が乗った食卓で、tavoloは食事が乗っていないテーブルまたは、事務机)人によっては、同じだという人もいるので、それほど差はないようだ。i testi sacri(聖なる原点)と書いて、聖書の意味を表す。testamentoとすれば、これも聖書である。聖書には他にBibbioという言い方もある。これが、英語のBibleの元であろう。biblioとは、ギリシア語で「本」のことである。これからbibliotecaは図書館。一方Testamentoは、「遺言」の意味もある。l'Antico Testamentoを旧約聖書、il Nuovo Testamentoを新約聖書という。Testamentoが遺言の意味なら、新しい(神が残した)遺言と古い遺言のことかと思うが、一般には、新約旧約の「約」とは、神との契約のことだといわれている。旧約聖書は132で上げた、ナブッコの話のあとユダ王国が滅び、そして再興されるまでの話だそうである。従い「約束」というのがよくわからないが、いずれ宗教的な意味合いの言葉なのであろう。その後新約聖書との間は400年ほどの隔たりがある。イエス・キリストはイスラエル民族の王家の子孫だとされている。つまり父親であるヨセフはダビデの子孫だということになっているが、マリアは聖霊の子を身ごもったことになっているのでどこでどう整合するのか、私にはわからない。人間は「出自」「学歴+富」「知識」「徳」と、この順序で人を見る(五木寛之「人間の覚悟」)そうで、イエス様でも出自を作り上げざるを得なかったのかと思う。釈迦は、領主だか地方の王様だかの子孫である。日本でも源氏か平家の血をひくものでないと、素性が知れないということになり、太閤秀吉も伊藤博文らもその他多くの武将、政治家が家系図をでっち上げたと言われています。残念ながら、「徳」はこの社会では人を見る基準としては最後に来ます。婚活で女性が条件に上げるのは2番目の「学歴と富(もしくは期待される富)」だと理解は出来ます。出自までは、恐れ多くて望まないということでしょうか。イタリア語の本題を少し離れてしまいました。イエスという日本語がどこから来たのか触れたかったのですが、イタリア語ではGesu`(ジェズ)であるが、スペイン語ではJesusu(ヘスス)である、ギリシャ語はイイススといい、古代ギリシア語が最も近い「イエースース」となるらしい。そういえば、キリシタン・伴天連(バテレン)と言っていた時代は、イエズス教会ともいっていたように思う。ただ、はっきりとい「イエス」という言語がみつからないことからして、日本ではYes(ハイ)に合わせて「イエスさま」と言ったのでは無いかとは、論理の飛躍しすぎ、でしょうね。さて、儒教が説く「仁」や「徳」は、現実社会では人を見る基準として最後にくることになっているらしいが、これらはイタリア語では、virtu`と言います。ラテン語のvirtusからきたものですが、virは「男」の意味で、もともとは男性らしさ、肉体的な強靭さや勇気の意味があったものですが、イタリア語のvirtu`は、ラテン語本来の意味はなく男女を問わず「徳」を表す言葉となっています。




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